2019年10月5日(土)

菊姫合資会社 代表 柳 達司さん

 

本社 石川県白山市鶴来新町タ8番地

東京支店 東京都中央区日本橋浜町2丁目25番7

オフィシャルサイト

https://www.kikuhime.co.jp/


菊姫の源流をたどれば天正(てんしょう)年間に遡る。安土桃山時代最初の年号にあたり、西暦で言えば1573年から1593年のことである。当時の将軍は足利義昭であり、室町幕府第十五代且つ最後の将軍だった。足利義昭を京都から追放することに成功した織田信長が織田政権成立を全国に流布すべく朝廷に要請して改元に至ったようだ。「鶴来へは京都から逃げてきたんです。応仁の乱でしょうなあ、想像ですけども」柳達司さんは四百年前に思いを馳せる。応仁の乱と言えば天正年間より百年ほど前に約十一年続いた教科書にものる戦争である。京都にいたら命がないと多くのひとが京都を抜け出した。柳さんのご先祖様もそうした人たちだったのだろう。

 

ところで鶴来町(つるぎまち)の鶴来とはこの土地の神社金剱宮(きんけんぐう)に由来する。もともとは剣(つるぎ)町であったのを江戸時代にはいって鶴来と当て字をするようになり今に至るようだ。鶴が飛来するところという意味ではない。

 

東京から菊姫が本社を置く石川県白山市鶴来に行くには陸路なら北陸新幹線で金沢に出、隣の西金沢駅で北陸鉄道石川線という二両編成のローカル電車に三十分ほど揺られて終点が鶴来である。陸路でと書いたが、この地から京都へ向かう道が北陸道であり、「ほくろくどう」と昔は呼んだという。「ろく」とは禄すなわち税金であり、昔から天災が少なかったこの地から途絶えることなく米などの「ろく」が届いたことより「ほくろくどう」と呼ばれるようになったと柳さんに教えていただいた。鶴来一帯は白山のおかげで台風などの被害もほとんどうけない地域なのだという。その地形的優位を活かして農業が盛んに行われ豊かな土地を築いていったのだ。

 

 

世の中には二種類の造り酒屋があるという。ひとつは商人(あきんど)酒屋であり、もうひとつは地主酒屋である。あきんど酒屋というのは商売をしながら酒も(造って)売る酒屋のことである。こうした形態の酒屋はたいてい街道の入り口に店をもち、市内で商売をしにきた様々な人が立ち寄り、食事をしたり酒を飲んだりする場所として栄えたという。商売を生業としているので昔から商売が上手く、巧みに業態を変化させて現在でも元あきんど酒屋というのが多く生き残っているという。

 

一方地主酒屋というのはもともとが農家の地主であり、自分の土地で穫れる米の商品価値を高める策として酒造りを始めたのがそもそもの始まりという。「つまり米を売るだけでなく、酒を造ることで酒でも飯が食えるようにした」と柳さんは語る。菊姫はそんな地主酒屋の典型だった。ところが戦後GHQの指導により行われた農地改革により、もっていた田畑を小作人に渡さなければならなくなった。実際には地主の農地を国が買い上げ、それを国が小作人に売ったのである。その結果、地主酒屋の自前の米をつかって酒を造るというコンセプトそのものが成り立たなくなったのである。

 

柳さんが小学生の頃、酒屋業界は厳しい時代を迎えていた。当時は酒屋が買える玄米の量を国が管理し、それによって一つの酒屋の生産量というのは決まっていた。よって多く売れる酒屋は足りない分を他の酒屋から玄米を買う権利を買ったり、或いは出来上がった酒そのものを買って消費者に売っていたという。そうして灘や伏見の大手が急成長を遂げていく。一方地方の酒屋の中には大手に権利や酒を売ることをいとわない酒屋がでてきた。一時は売り手市場で儲かったようだが結果的にそうした酒屋は現代に生き残ることはできなかった。菊姫のように瓶詰めをして自社ブランドとして売っていた酒屋はどうしていたか。そうした酒屋もまた苦境に立たされていた。それは大手が販売流通網を抑えていたからである。売ろうにも思うように売ることができない。そしてたとえ売ったにしても灘や伏見の大手と同じような酒を売っていては消費者に買ってもらえない。どこにも作れない酒を造ろう。誰にも造れない酒を造ろう。それが菊姫の生き残る道である。若き柳さんはそう心に固く決意した。

 

日本一の米を手に入れたい。それは兵庫県吉川の山田錦である。そしてそれは灘の大手酒屋が抑えていた聖域であった。そこからいかにして山田錦を手に入れ現在の太いパイプを築くに至ったかは映像をご覧いただきたい。山田錦を今では当たり前のように仕入れることができる。それを可能にしたことこそがまさに自分の人生だったと柳さんは振り返る。その思い出話を語る柳さんの眼前にはまさにそのときの風景がありありと浮かんでいた。我々はレンズを通して柳さんが眺める風景の一端を垣間見ることができよう。

 

菊姫には秘密がない。私がこれまで取材してきた様々な職人と共通するように、菊姫もまた手の内を明らかにする。柳さんに蔵の内部を案内していただいた。その際も撮影禁止の場所などなかった。企業秘密はないのだ。それは菊姫の、しいては柳さんの自信の現れであると同時に清酒業界へのメッセージでもある。もしあなたが清酒業界に身を置く立場なら、そのメッセージは言わずとも胸の内に響くだろう。多くの、清酒業界とは無関係なひとたちは、私の解説などを聞くよりまずさきに菊姫を口に含むことから始めよう。

 

 

濃醇旨口の難しさ

「濃醇旨口は難しい。淡麗辛口は簡単なんです。濃醇旨口は材料を選ぶんです」と柳さんは力を込める。濃醇の醇とは辞書をひけば「まじりけのない濃厚な酒」とある。菊姫は淡麗と対極をなす濃醇を味わいの柱としている。それは米の旨味を最大限楽しむためである。まずは菊姫を一口飲みたまえ。日本一の米、吉川の山田錦から菊姫が作り出す濃醇の世界が深い余韻をたたえて広がっているのを感じるだろう。

 

旨口を言葉で表現するのは難しい。「辛口にも旨い不味いがあり、甘口にも旨い不味いがあるんです」柳さんは笑いながらそう言った。では旨口というのは主観なのか。菊姫に限ってそれは違う。しかしそれを言葉で説明するには無理がある。少なくとも私にはできそうにない。例えば旨さをある成分の量で計測できるのか。もちろん菊姫はやっている。しかしだからといって他の酒が同じ成分量を有していたとしても同じ味、同じ旨口にならないのは火を見るより明らかではないか。だからそうした数値を指し示すことはもっともらしくこそあれ実際は無意味なのである。菊姫の旨口は米の栽培から始まり最後に酒として絞られるその時までの全行程によって成立している。よって旨口を知るもっとも論理的な方法は菊姫を飲むことである。

 

私が菊姫を訪問するのは二度目である。一度目はGRIT JAPANに出演していただいた鶯谷萬屋の長由起子さんに案内いただいて蔵の見学をさせていただいた。2011年二月のことだった。あたり一面銀世界に包まれていたが、その日は奇跡的に快晴となり青空と雪の白さのコントラストが美しかったのを覚えている。それから八年の歳月が流れ、こうして再び菊姫を訪れることになるとは誰が想像できただろうか。冬の以前とは異なり、今回は夏の終わりである。ちょうど台風の影響で風が強く時折飛沫のような雨が飛んできた。折りたたみ傘がたためないなと思ったら傘の柄が風で曲がっていた。撮影中も風がごうごうとうなり、ガラスを木枠にはめ込んだ木戸ががたぴし音をたてていた。映像中にガタゴト音がするのはその音である。

 

 

インタビュー撮影を終え、柳さんが先導にたって蔵を案内してくれた。自身が設計したタンクの間を通り抜ける。柳さんはこうしたタンクを製造するメーカーにタンクの大きさだけでなく使用する素材までも指定していた。酢を製造するのと同じ耐蝕性に優れたステンレス合金を使用しているのだという。エレベーターで最上階まで上がり、そこから順繰りに一つずつ各部屋を見せていただいた。柳さん自身が一から作り上げた蔵だけあってその説明はよどみがない。様々な検査機器がずらりと並ぶ研究室は二部屋あり、それぞれ別の目的のためにあるのだという。おそらく一般的な酒蔵のイメージを覆す光景といえるだろう。「ニコンが好きなのでニコンの顕微鏡なんです」柳さんは笑いながら頭をかいた。最後に見せていただいたのが、柳さんが一番最初に設計した麹室(こうじむろ)だった。密閉式のドアをあけてなにかに気がついたようだった。自分が使っていたころとは機材の配置が違い部屋の使い方が少し変わっている。柳さんは満ち足りた表情をしてそう言った。