2019年9月9日(月)
初心忘るべからず
能については世の中に膨大な書籍資料が存在し、その世界にまったく無縁であった私がここで俄の知識を披露するのがためらわれる。ただ私同様に能という演劇にまったく接点がない人のために少しばかりの基礎知識を記し、能理解への一端としていただければ幸いに思う。
能及び狂言を総称する言葉として現在では能楽と呼んでいるが、かつてそれらは猿楽(さるがく)と言われていた。猿楽の前は散楽(さんがく)というものがあり、それは古代中国の正楽(正統な舞踊)に対する俗楽を祖としている。その中身と言えば、モノマネ、マジック、曲芸、人形劇などといった現在でも存在する様々な芸能があった。奈良時代になって散楽は猿楽と名称を変えるが、その正式な理由はわかっていない。
平安時代の猿楽は笑える寸劇が中心だったとあり、狂言の原型になったと言われる。能は寺院で行われる法会の余興や、鎌倉時代の芸能集団が演じていたドラマ性の高い歌舞が母体となって誕生する。詳細を省いて要点に絞れば、能は、時は永和、室町時代(1300年中頃)。観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)親子の登場により大成する。この観・世親子がそれまでの歌舞劇より能の様式を定義し、現在に通ずる能スタイルを決定した。この親子が創作した数多くの作品が現代でも演じられていることを鑑みれば、二人がアクター(或いはパフォーマーというのか)にとどまらず、優れたクリエイターでもあったことがわかる。特に息子の世阿弥は作品にとどまらず、能に関する数多くの著作を残し、能のあるべき姿を後世に伝える努力を惜しまなかった。
誰もが知る「初心忘るべからず」という言葉はそんな世阿弥が記した言葉の一つである。この豆知識を得ただけでも能に触れてよかったと思えるのではないだろうか。
室町幕府三代将軍、足利義満という強力なパトロンを得て世阿弥はときの芸能人となり、役者としてまた作家としてその才能を爆発させる。ところで、ここが重要なのであるが、能を能と呼ぶようになったのは世阿弥の時代からである。それまでの猿楽の中の歌舞劇という1ジャンルだったものを、独立した「能」に昇華させたのは世阿弥の功績であり、もはや能は猿楽におけるモノマネの範疇を超えた存在になったのである。世阿弥が言い出した「能」は次第に他の役者も能と呼ぶようになり、観阿弥・世阿弥親子が目指した新しい演劇スタイルはついに能と認知されるに至ったのだ。
深川八幡祭り 能奉納「橋弁慶」富岡八幡宮にて
そんな時のスターであった世阿弥であるが、六代将軍足利義教(よしのり)の時代になると事態は一変する。義教は世阿弥ではなく、世阿弥の甥の音阿弥(おんあみ)を贔屓にし、なんと世阿弥は佐渡に島流しにされてしまう!まさに天国から地獄とはこのことである。ときの権力者の不好を買ったと言われればそれまでだが、芸能人の浮き沈みというのは今も昔も変わらないと感じたのは私だけであるまい。さて、能の成立を観阿弥が目指して世阿弥が完成させたというところで、歴史についてはひとまず終わりにしたい。この後も興味深い歴史が続いていくわけであるが、能に対する足がかりはこれで十分であろう。興味を持たれた向きはぜひ文末の参考文献を参照されたい。或いは膨大な文献の中へと飛び込んでみるのもまた一興である。能世界の奥深さに目眩を覚えつつ知的探求の旅に出ていただきたい。
能を一度も観たことがないひとが読むという前提で書いているが、あなたは能が一体全体どんなものであると想像しているか。私もつい二月ほど前に能を初めて観たばかりである。それまで私が勝手に想像していた能とは、
大変静かなものである。
大変厳かなものである。
大変退屈なものである。
みんなマスク(仮面)をかぶっている。いわゆる能面というヤツだ。
というものだった。とくに最初の「大変静かなものである」というのは綺羅びやかな歌舞伎と対照的な存在としてかくあるべしと固く思い込んでいた。ところが、ところがである。
令和元年六月十五日。梅雨空らしい白くぼやけた雲が頭上を覆い、朝から小雨が降り続いていた。私は半蔵門線を三越前で銀座線に乗り換えて銀座にやってきた。銀座は前職の職場が築地だったため毎日のように銀ブラしていた土地である。もっとも金がないからほんとうにブラブラしていただけであったが、ブラブラ路地を徘徊しているだけでもなかなかに面白い街だった。中央通りは相変わらず中国・アジア系の観光客でごった返していた。まだまだ景気は良さそうに見えた。新橋方面に歩いてGINZA SIXを目指す。GINZA SIXはオープン当初に覗きに行って松坂屋の名前がGINZA SIXに変わっただけだったという記憶しかなく興味もなかった。しかし今日そのGINZA SIXを目指すのはそこに観世能楽堂があるからである。
深川八幡祭り 能奉納「橋弁慶」富岡八幡宮にて
GINZA SIXは地下二階まではすんなり降りられるが地下三階に下りるのは初めてだと一苦労するだろう。地下鉄とは地下通路で直結していることは知っていたが、銀座の街を歩きたかったので地上からアプローチしたのである。はたして地下三階は秘密基地のように動線から外れたところにあった。無事会場に入り生まれて初めて能楽堂を目にする。屋内なのに舞台の上に屋根を置くのは冷静に考えれば滑稽であるが、同時にその独特の雰囲気に迫力を感じた。もともと能楽堂は屋外に設置されていたものであり、近代になって建物内部に収容される形態をとった。これにより全天候対応となり空調設備の導入も相まって季節問わずの上演が可能になった。よって現代における能の年間上演数は世阿弥の時代とは比較にならないほど多いそうだ。
この日は能楽師 桑田貴志さん主演(シテと呼ぶ)による「三井寺(みいでら)」が上演される。桑田さんは年に一度桑田貴志能まつりと題した自主公演を行っている。今年でちょうど十回目を迎えるという。能楽師が自らシテ(主演)となって能を上演するにはどうするのか。世襲によって能楽師になった人は親から公演機会も受け継ぐことができるが、桑田さんのように一代目として始めた能楽師はその受け継ぐ公演がない。そこで自主公演を行うことになる。能を舞うこと以前に公演機会を作ることの大変さを桑田さんは語ってくれた。なにしろ舞台に上がった時に「ほっとしたくらい」というから一から準備することがいかに大変だったかが伺える。
桑田さんは学生時代に能に目覚め卒業後プロの能楽師になるべく本格的な修業を開始する。能楽師になるためには師匠のもとで五年間住込みで修業を積まなければならない。男ばかりの世界で中でも桑田さんが一番年下の弟子だったためずいぶん大変だったという。男ばかりで下っ端とくれば想像に難くない苦労がしのばれる。住込みで修業していても師匠が教えてくれることはほとんどなかったという。見様見真似で能を練習しまさに盗んで覚えたものですと語ってくれた。毎年ある試験をクリアし五年目の卒業試験を合格して晴れて能楽師として桑田さんはデビューした。能楽師のうち三分の二が世襲組であり、残りの三分の一が桑田さんのような一代目組なのだという。結果的に自分はそれほど珍しい存在ではないと桑田さんは言ったが、能楽師としてやり抜く力あってこその現在があるのではないだろうか。
深川八幡祭り 能奉納「橋弁慶」富岡八幡宮にて
自由席のチケットを買ったため舞台向かって左側からの観賞となる。屋根を支えるための柱が死角を作っている。どうせ屋内なのだから吊り天井或いは屋根を建物の造作の一部にしてしまえば柱は省けると思うのは素人考えなのだろう。おそらく四方の柱でさえ今は知らぬ意味がありそうである。本日のメインイベント「三井寺」は能の中でも謡(うたい:歌のこと)が占める割合が多く、「謡三井寺、能松風」と称されるほど、美しい謡で有名な作品なのだという。
多くの舞台がそうあるように、メインイベント前にいくつか短い演目がある。この日は仕舞(しまい)が二つに狂言が一つあった。仕舞とは能の一部を短く切り取ったようなものととりあえず思って貰えればいい。そしていよいよ三井寺が始まった。
まず最初に地謡(じうたい)と呼ばれるバックコーラスが八名登場する。それから笛、小鼓、大鼓の音楽隊が三名並ぶ。そして、ぽんぽこぴー、ぽんぽこぴー、よーぅっよーぅっとうなって八名による合唱が始まった。この時点で、私の当初の想像がガラガラと崩れていった。私は「能は大変静かなものである」と思っていた。しかし実際はまったくその反対だった。能はとても賑やかである。まったくもって賑やかである。びっくりした。思わずのけぞったほどだった。もし私のように能は静かだと勝手に思っているひとがいたら、やはり私と同じようにのけぞるであろう。いやはやこんなに賑やかなんですね、能は。この賑やかさはぜひ自身で体験してほしいものである。
私が想像していた二番目の「大変厳かなもの」とは当たらずとも遠からずであった。私は静けさの中にある厳粛さを想像していた。言うなれば山中にあるひと気の少ない寺院である。しかし実際は独特の音量に支配された厳粛さがあった。これは山中の神社仏閣に対して都市部のその有り様といえるだろう。多くのひとで賑わっている中の厳かな佇まいである。本当の様子はご自身で体験されたい。
能はどうも退屈そうだ。能を知らないひとほどもしかしたらそのように考えているのかもしれない。かくいう私もそう思わないでもなかった。ところがどうだろう。独特の舞、謡の抑揚、地謡の響き、笛と鼓のリズム、どれをとっても興味深いではないか。三井寺の内容を知らずとも十分楽しめるし、知っていればなお面白しである。もちろんだからといって能が万人受けするとは言わない。しかし能に限らず万人受けするエンターテインメントなどどこにもないのだ。あなたにとって能がどちらに転ぶかわからない。しかし能を一度も観ずして人生を終えてしまうのはあまりにももったいない。
最後に、能と言えば仮面である。おたふくを無表情にしたような女性の顔と般若の面が有名ではないかと思う。ちなみに般若は鬼婆である。私は能は必ず面(これをめんと呼ばずにおもてということもある)をつけて行うものだと思っていた。しかし実際は面をつけずに行う能もたくさんあるのである。知らなかったでしょ。面をつけない状態を直面(ひためん)という。能においては素顔もまた面と同じくでなければならないから、顔が出ているからといって表情をつけて演技してはいけない。これ見よがしに顔芸する歌舞伎となんと正反対なことだろうか。このような能を知るものにとってはごく当たり前のことでさえ、初心者には興味深い事柄に映る。それはひとつの感動である。
かくして三井寺の幕は閉じる。橋ガカリと呼ばれるメインステージ(能舞台)につながる廊下をシテが静々と歩いていく。来る時もゆっくりであったが、帰る時もまた恐ろしくゆっくりである。のちに桑田さんから聞いたところによると、その一歩一歩に主人公の人生を踏みしめているのだ。そうしたことを想像しながら観るとまた能の見え方も違ってくるのだろう。おそらく能ほど観客に想像を強いる演劇はないのではないかと思う。世阿弥が残した言葉に「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」とある。もともとは演劇の奥義を伝えるために記された言葉だが、能の核心をついていると初心者の私は思う。演劇者として本来魅せたいと感じることを抑えに抑え、舞や謡に限らずその背景セットでさえ絞りに絞る。その純度の高い一滴にすべてを懸ける、それが能であり、能以外にありえない世界である。それゆえに観客は持ちうる想像力を総動員して能を観賞する。よってその見え方は千差万別かもしれない。
世の中なんでもわかりやすさ、過説明を求める時代である。観る側は自ら考える力を失い、説明者はくどすぎる説明にまだ足りないと不安を覚える、そんな時代だと私は思う。能はそのようなあり方を一刀両断にする。現代における能の一番の存在意義はそこにあるのではないかと思う。
参考文献
能楽入門1 初めての能・狂言 三浦裕子著 小学館 1999年
岩波講座 能・狂言1 能楽の歴史 表 章、天野文雄 共著 岩波書店 1987年
古典を読む 風姿花伝 馬場あき子著 岩波現代文庫 岩波書店 2003年
近代能楽集 三島由紀夫著 新潮文庫 新潮社 1968年