2019年3月27日(水)
神楽坂梅花亭 東京マイスター/優秀和菓子職 井上 豪さん
神楽坂本店
東京都新宿区神楽坂6-15 神楽坂梅花亭ビル
03-5228-0727
東西線神楽坂駅 神楽坂口出て左へ徒歩2分
ポルタ神楽坂店
東京都新宿区神楽坂2-6 PORUTA神楽坂 1F
03-3235-0808
地下鉄飯田橋駅 B3出口を出て右へ徒歩1分
営業時間(両店とも)10:00〜20:00 不定休
オフィシャルサイト
オンラインストア
飯田橋から行くと、神楽坂を登って下りてもう一度登った右手に御菓子司 神楽坂梅花亭がある。店に入るとすぐに平置きされた色鮮やかな和菓子が出迎えてくれる。何十種類もある和菓子に目移りしながらもやはり大福や草餅など餅菓子に目が行ってしまうのは、私が大の餅好きだからである。大福なら一度に五個位はわけない。
神楽坂梅花亭は1935年の創業である。もともと江戸川区平井にあってのちに台東区柳橋に移った梅花亭に初代が弟子入りして暖簾分けしてもらったのが始まりだという。一度江東区亀戸にいたことがあったと聞いたことがあったので私はてっきり亀戸天神にあやかって梅花亭とつけたのかと思ったがそうではなかった。亀戸は当時水害が多く、とても食品を扱えるような環境ではなかったので十二社(じゅうにそう)に越しその地で創業することになった。十二社というのは、現在の新宿都庁よりも西側にあるいわゆる西新宿エリアにあたる。都庁周辺はかつて淀橋浄水場があり新宿十二社温泉が出、芸者が来るようなちょっとした歓楽街を形成していた。戦後池袋へ移転し、四代目(当代)の井上豪さんの代になって神楽坂に移ったという。
初代である井上松蔵さんのエピソードをひとつ紹介したい。
戦争で徴兵され中国で終戦を迎えた松蔵さんが日本へ帰れると思って乗り込んだ汽車の行く先はシベリアであった。収容所では、毎朝一かけのパンが与えられるだけでほかに食べ物はなかった。そこで強制労働させられるのだから体力が持つはずがない。芋虫だのネズミだの食べられるものはなんでも食べた。そうした状況だから、食べ物とりわけ甘い物への思いは日々強くなっていったそうだ。生きて日本に帰ったらお菓子屋をやろう、そう決意するまでになった。
ある日、日本に帰る貨物船があるから乗りたいものはいないかとロシア兵が声をかけた。しかし猜疑心の塊になっていた日本兵たちはだれも手をあげようとはしない。だれがそんな言葉を信じられるというのだ。松蔵さんももちろん疑った。しかしこのままここにいても結局は死ぬだけだ。だったらひとつその言葉を信じてみよう、という気になった。かくしてその貨物船は本当に日本行きの船だったのである。こうして松蔵さんは九死に一生を得た。
戦争という極限状態での選択が人生を分けた瞬間だった。今神楽坂梅花亭があるのは、その時下した判断の結果である。人生どこに重要な選択が待っているのか。また重要な選択ほど重要そうな顔をしていないものである。戦争のような極限状態とは程遠い現世においてもやはりそれは同様ではないか。そう思えば思うほど松蔵さんのこのエピソードは私の胸に深く響いた。
ところで松蔵さんはシベリアであるものをこしらえている。パイプである。
シベリアといえば極寒の地であるのはご存じのとおりだ。寒さを堪えるために手をしきりにこすり合わせる。こすり合わせているうちにただこすり合わせるだけではもったいないと気がついた。この摩擦エネルギーを使って何かを作ろうと思った。そこで松蔵さんは落ちていた棒きれをひろってきてこすったり削ったりしてなんとパイプを作ってしまった。もちろん道具なんかない。ガラスの破片だったり針金を使ったりあるものはなんでも使って加工を試みた。初期の作品(立派な作品である)は棒に穴を貫通させただけの形状だった。おそらく先にタバコをさして吸っていたのではないかという。パイプづくりのノウハウを掴んだ松蔵さんは本格的なパイプをこしらえてしまった。まったく素晴らしい出来栄えの一言である。これがシベリアでの抑留時代に手作業で制作したとはだれも思わないだろう。しかしそうなのだ。タバコの葉を入れる部分には薬莢のような金属が埋め込まれ本体が燃えないようにまで加工されている。木目もちょうどよかったと豪さんは言う。どうやら手先の器用さは遺伝するようだ。豪さんの器用さはおじいさん譲りなのだろう。
今では家宝として大切にしまわれているシベリアンパイプをとくとご覧あれ。
当代である井上豪さんは四代目である。初代の松蔵さんは豪さんの祖父であり、豪さんの父が二代目を継ぐが三十九の若さで亡くなってしまう。「寝食を忘れるほど働いていた」と井上さんは父の記憶を辿る。当時井上さんは十歳だったため、あんこ職人として働いていた父の弟が三代目を継いだので豪さんで四代目となる。三代目はあんこ職人の傍ら詩人でもあったそうな。いや本人に言わせれば詩人の傍らにあんこ職人だったのかもしれない。それにしても和菓子作りに詩の創作とはなんとも情趣を感じるではないか。
お菓子屋に生まれ育った井上さんにとって、自分が店を継ぐことは当然だった。幼少期より小遣い稼ぎも兼ねて店の手伝いをしていたからあんこを包む技術も自然と身についてしまった。もとより手先が器用だったのもあった。趣味のフライフィッシングでは毛鉤を自作するほどに凝っているし、油絵の魅力に取り憑かれて美大に進んだりもした。間違いなくお菓子一筋でない広い視野と深い好奇心が新しい菓子づくりに生かされている。井上さんの背景を知れば知るほどに井上さんが作るお菓子の豊かさに納得がいく。
和菓子と言えば、茶道でつかう練り切り(関西ではこなしと呼んで材料が少し違うが、どちらも作るときの動作が名前になっているのは同じだ)のような上生菓子が欠かせない。和菓子職人として上生菓子を作るのは求められる必須条件だが、それが茶道とどのようなつながりを持っているかまでを知ろうとする職人は少ないのではないか。井上さんもかつてはその一人であった。
しかしある時自分が作る上生菓子が茶会においてどのように扱われるかを知らないのはまずいのではないかと思い立って茶道の門をくぐる。茶道には有名な「一期一会」という言葉がある。人生における一回性を重んじる茶道において、上生菓子にも新鮮味と意外性と亭主の客人にたいするおもてなしの精神が通じてなければいけない。それはつまりマンネリは許さず感動を呼ぶものである必要があるということだ。また箸でとって懐紙にのせるという所作から崩れやすい形状や材質は自ずといけないという機能性もまた重要だった。
こうした茶道では「基本的」とさえいえることすら知らなかった自分を反省するだけでなく、茶道の奥深さにすっかり魅了されてしまった井上さんはついには茶名をいただくまでになったというからこの方の好奇心は尽きるところがない。ちなみに茶名は宗豪というそうです。
まったく同じ上生菓子であっても、作る人が違えばその形状に差が生まれるのも当然である。井上さんのつくる上生菓子は一言で言えば繊細である。実際につくる妙技については映像をぜひともご覧頂きたいが、その細かい作業と結果できあがった練り切りの細部からオーラを放つ。そしてなにより手際がいい。水分を含む菓子ゆえもたもたしているとどんどん乾いてしまう性質から手際がよいのは当たり前かもしれないが、手際良さと繊細さが同居した瞬間アートになった。
神楽坂梅花亭はもちろん上生菓子だけではない。草餅、桜餅、柏餅といった季節折々の餅菓子、年中ある饅頭や大福、定番の鮎の天ぷら最中、そして新定番になったメレンゲを焼いてつくった浮き雲など常時五十種類ものお菓子が店頭を賑わしている。さすがに五十種類は作り手としても多すぎると感じたようで、商品数を絞りたいというのが目下の目標だそうだ。
最後にお菓子の材料について少しばかり申し上げておきたい。映像中でも語っていただいたが、梅花亭で使用する原料のほぼすべては素性が確かな厳選された素材ばかりである。何が入っているかわからない、何からできているのかわからないものは使わない。人工的な保存料や着色料も使わない。自分たちの目がとどく範囲のものしか使わない。だから安心して頂ける。そして本当の美味しさというのは、素朴な自然の恵みだけでつくったものであるとは梅花亭の信念である。
美しい練り切りの数々をスライドショーでご覧いただこう。