2021年4月2日
太陽が昇り、そして沈む。月が欠け、そして満ちる。季節がめぐり、また懐かしい星が頭上を覆う。人類は一日を、ひと月を、そして一年を太陽や星々の繰り返しによって知っていた。時はただ流れるに非ず、ある一定の周期を伴いながら、螺旋状に進んでいくものだと知っていた。生命は誕生してから死まで寄り道をすることなく進行していくが、朝と夜が交互に訪れてやがて以前感じた季節が戻ってくる。日が巡り季節が巡ることで、あたかも永遠の繰り返しがあるような錯覚が、ただ死へと突き進んでいく恐怖を忘却させた。時間は地球や宇宙が作り出す神聖なもので、人類は自分たちと自然の繋がりを確認するために時を記録し、それはやがてカレンダーの原型と呼べるようなものに発展した。旧石器時代のことである。
新石器時代を迎えると人類は氷河期の終わりとともに急速に発展を遂げていく。氷が溶け、大地が顔をだすと人々は新天地を求めて移動を始め、またそれまで出会うことのなかった部族と交流を行うようになる。人口が増大すると計画的な食料調達が必要になってくる。交易が活発になり、さらに発展するために時間を測るという行為は自ずと開発されることになった。それは現代の視点からすれば遥かに大雑把で曖昧なものだっただろうが、ただ自然との繋がりを求めた極めて個人的な尺度であった時間が、人類が進歩していくための道具に変化した時代と言える。
さて、時間が測れるようになると、一日を分割してより細かい計測が可能になる。その中で昼間と夜を分けて考える方法は自然のあり方に即した方法と思える。具体的には昼間の十二時間と夜の十二時間が合わさって一日二十四時間とする。このとき、昼間の長さと夜の長さが等しくなるのは一年に二度ある昼夜平分時しかない。その他はどちらかが長くてどちらかが短いのは当然である。そしてそれを当然と受け止めて一時間の長さを季節に応じて変化させることで、昼間の十二時間と夜の十二時間を一定に保つ方式を不定時法と呼ぶ。古代エジプトやバビロニア、そしてギリシャなどで採用されていた方式である。
不定時法は自然の理にかなった時刻表示方式であったが、やがて一時間は季節に問わず一定とする私たちが慣れ親しむ定時法が世界の標準になっていく。定時法はそれまで自然に寄り添って生きてきた人類が自然の如何に関わらず我が道を歩きだすために欠かせないものとなった。ところが、時代が進み定時法によって世界が動いているさなか不定時法を時刻の拠り所として生活している国があった。日本である。
時計は鉄砲の伝来とほぼ時を同じくして日本に伝わったとされている。ヨーロッパ人が日本に持ち込んだ工業製品として機械式の置き時計は鉄砲と同様に日本人の心を強く掴んだのである。当時時計は「自鳴鐘(じめいしょう)」と呼ばれ、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルの献上品の中にあったとされている。この精巧に作られた置き時計に日本人は驚嘆したと同時に困惑した。それは定時法のもとに動作する時計は自分たちの生活と一致しないためであった。当時の日本には歯車やネジを製作できるようなノウハウも設備も存在しなかったが、ヨーロッパ人の指導を受けた鍛冶職人たちによって課題をひとつひとつ克服していった。もともと日本刀に代表されるような製鉄技術は世界水準に達していたこともあって、不定時法で表示できる時計「和時計」への改造は早々に完成したのである。和時計は昔時計、日本時計などとも呼ばれており、不定時法が廃止になる明治初期まで作られ続けたのであった。
自然に寄り添う表示方式として、また農耕において都合がよいとされてきた不定時法の時計であるが科学の発展に適さないのもまた事実であった。重力の強さによって時間の進み方が異なるとしたアインシュタインの登場以降においても、限定された条件においては時間は一定であるほうがなにかと都合がよく、また現実的な運用においてそれが正しくもあった。それゆえ、日本が農業中心から工業立国へとシフトするためにも定時法採用は避けては通れない道だったのである。
ところで、時代の変化によって消えていった和時計と不定時法であるが、表舞台から退場する際にいくつか置き土産を置いていっている。だれもが知っている言葉として「おやつ」がある。これは「お八ツの時間」つまり不定時法における八ツ刻を示す言葉がそのまま残ったものである。また「草木も眠る丑三ツ刻……」という怪談でおなじみの表現も時代背景を意識した表現として今でも残っている。四谷怪談をやっているのに「午前二時頃……」なんて言われたのでは興ざめであるから、落語家や歌舞伎など江戸時代を語る職業にとっては不定時法は今でも息づいているのではないだろうか。
さて、和時計のほとんどは置き時計か掛け時計であった。懐中時計の一種となる印籠時計などもあったようであるが、不定時法の腕時計を製作したひとが現代に登場する。独立時計師の菊野昌宏さんである。
独立時計師とは、個人或いはごく少数で時計を製作するひとを指す。時計のほとんどは腕時計であり、歯車とゼンマイによって構成される機械式腕時計が主な製作物となる。したがって個人或いは少人数で時計を製作するひとは皆独立時計師と呼べるわけであるが、菊野さんはスイスに拠点をおく国際的な組織である独立時計師アカデミー(Académie Horlogère Des Créateurs Indépendants :AHCI)に日本で初めて正会員となった(2013年)。ちなみに2021年現在日本人として三名(正会員二名、準会員一名)がAHCIに登録されている。(AHCIの総会員数は、正会員三十一名、準会員五名。2021年)
北海道生まれ、北海道育ち。就職先は自衛隊。手先が器用でものづくりの仕事を志していたが、会社に所属してのものづくりは自身が考える自由なものづくりとは相容れないものになると直感して選択しなかった。陸上自衛隊の整備部に配属されライフルなど武器装備の整備を手掛ける日々を過ごす。しかし、そうした装備というものはあらゆる使用環境において簡単に整備できるように設計されているため菊野さんが求めるような複雑さなど備えているはずがない。だからといって自衛隊を辞めたところで「ものづくりしたい」という思いは漠然としすぎていてこれぞという職業も思い浮かばないまま日々が流れていた。
機械式腕時計と菊野さんを結びつけたのは上官が腕にはめた一品だった。パチンコで儲けた金で買ったというオメガ・シーマスターの値段を聞いて仰天した。そしてそれが電池ではなくゼンマイを動力にして動く「機械式」であることを知って好奇心に火がついた。機械式腕時計とは何か。それはどんな構造なのか。腕時計の雑誌を貪るように読み、菊野さんは眼前に広がった新しい世界に夢中になった。そのとき雑誌に独立時計師の記事を目にする。独立?時計師?個人が時計を作ることが可能だなんてこれまで考えてもみなかった。機械式腕時計の魅力に取り憑かれてなお、時計はメーカーが製造設備を稼働させて多くのひとや機械を動員して作るものだと思っていた。ところがその記事には一人で時計を作るひとたちが載っている。なるほど一人でも時計が作れるのか。であるならば、ぜひ自分も作ってみたいものだ。
自衛隊を辞めて上京し、時計の専門学校に入学した。そこは時計の設計ではなく修理方法を学ぶ場だった。専門学校は即戦力を生み出すための教育の場である。世の中に時計の修理の仕事は溢れていても作る仕事などまずないのであるから当然だ。しかし菊野さんに修理師として生きるという選択肢はなかった。ただただ時計が作りたい一心で機械式腕時計の構造を学び、修理技術を磨いた。ところが修理するのと作るのでは根本的に違う。もちろん修理でも失われた部品をイチから作り出すこともあるが、それが修理の大半にはならない。
してこの歯車は一体どうやって作り出すのだろうか。この形状を生み出すにはどんな道具が必要なのか。時計を作りたいという思いとは裏腹にただその前途は闇の中だった。専門学校の研修旅行で目にしたスイスの時計師の工房は、菊野さんを時計作りから諦めさせるには十分すぎる説得力があった。個人或いはそれに近い少人数の工房でさえ最新鋭の機材が所狭しと並んでいたのである。個人といっても規模の差こそあれ、そこで行われていたことは時計メーカーと遜色ないものだった。とてもこれだけの機材を集めることはできない。やっぱり時計を作るなんて最初から無理だったのだろうか。
意気消沈した菊野さんを再び鼓舞したのは偶然見たテレビのドキュメンタリーだった。江戸時代の和時計との出会いである。江戸時代に比べれば、現在のほうが材料にしても機材にしてもずっと恵まれている。江戸時代にこれだけのものが作れたのだから自分にもきっとできるのではないだろうか。高価なコンピュータ制御の切削機や加工機がなくても作れるはずである。現に江戸時代の職人たちはない物づくしのなかでやってのけていたではないか。なにを持って手作りと呼ぶのかはひとによって違うだろうが、自分にとっての手作り時計の原型を菊野さんはその和時計の中にみたのである。
まず江戸時代にあったような置き時計や掛け時計を、そしてついに和時計の腕時計を完成させた。しかも腕時計には季節によって変わる昼夜の長さを自動調整する機能まで搭載した。和腕時計は菊野さんの時計作りの根幹にもなったし、対外的なアイデンティティにもなった。しかし、菊野さんの本分は和時計を作ることだけではない。それは定時法、不定時法といった方式に捕らわれるものではなく、菊野さんが作る時計の佇まいこそが本領である。
きれいなものを作るというのならむしろ一人でやらないほうがいい。磨きは研磨専門の職人、切削は切削専門の会社、そういうふうにそれぞれの専門家に依頼したほうがきれいなものができる。しかしそうしてできたきれいなものに自分は心動かされない。そうしたきれいなものはあくまでも余所にあるきれいなものである。自分が手を動かして作る時計には、自身の世界観を十全に堪能できるものでなければいけないのだ。そこには余所のきれいなものが入る余地はない。
宮本武蔵は五輪書の中で兵法の目付といふ事という教えを説いている。そこでは観の目強く、見の目弱くしろと言っている。敵の刀を見て刀を見ずという一見矛盾を感じるようなこのことこそ物の本質を見抜く際にもまた重要になろう。観の目とはすなわち心眼である。見の目とはごく日常にもちいる普通に見ることをさす。見ようとする意識が逆に目を曇らせてしまう。だから弱くしろと言っていると小林秀雄は解説する。
実際ひとは微に入り細を穿って見ようとする。なかには傷見(時計用のルーペ)を使って覗き込むようにして見るひとまである。そうして見れば見るほど本当のことは増々見えなくなってしまう。これが真剣勝負なら太刀筋を見てる間に切られてしまうということだ。心の目で観るということは一見突き放した表現かもしれないが、遠くを近くに見、近くを遠くに見ることであると武蔵は言っている。相手が時計であるならば、目の前の佇まいが全体であり細部である。そして、佇まいを分割することなく観ることができたとき、その時計の美しさに心奪われるだろう。全体の美しさこそが、菊野さんが目指し心血を注いで作り上げたものなのだ。
菊野さんの時計には前述の和時計のほかにトゥールビヨンがついたものや、リピーターの一種など時計師なら一度は手掛けているであろう機構の時計が並んでいる。であるから機構など問題ではないのだ。もちろんそれを実現する技術力は称賛に値するが、それは菊野さんの個性とは無関係である。並んだ時計を見ていると一貫性を感じずにはいられないだろう。ひと目で菊野さんの作品だとわかる個性がある。そしてその個性は作品をひとつ作るごとに研ぎ澄まされていき、より鋭利なものになっていく。かつてただ時計を作りたいという思いが、今や自分の世界を作ることへと生まれ変わったのである。
参考資料
“THE MASTERY OF TIME” Dominique Fléchon, Flammarion 2011
「和時計−江戸のハイテク技術−」 澤田 平 淡交社 1996
「五輪書」宮本武蔵著 渡辺一郎校注 岩波文庫 1985
「人生について」小林秀雄 中央公論新社 1978
AHCI オフィシャルサイト https://www.ahci.ch/