2019年9月29日(日)

活動写真弁士 縁寿さん

 

オフィシャルブログ「活動弁士は七変化」

https://ameblo.jp/bensi/


十九世紀後半に映画が発明されて以来四十年間、映画には音がついていなかった。こうした映画を無声映画或いはサイレント映画という。したがって、音のない映画を上映する際には生の伴奏とセリフや解説がその場で付け加えられた。そうしたセリフや説明を観客にむかってしゃべる人を活動写真弁士、略して活動弁士と呼ぶ。活動写真とは動く写真すなわち映画のことである。映画という呼称が一般的になったのは大正後期であり、それまでは活動写真と言われていたようだ。英語で映画を表すMotion Pictureの直訳だったとウィキペディアに書いてある。

 

サイレント映画しかなかった四十年の間、活動弁士の数も増え、最盛期には全国で7,500名前後を数えるほどになっていたという。しかしそれも1927年に音声付き映画が実用化されるとトーキー映画が隆盛するに従って活動弁士産業は衰退の一途をたどることになる。映画の仕事がなくなった活動弁士たちはもともと人前で話すことに長けていたこともあり司会者や芸能の道へと進んだひともいたが、多くは廃業したのではないだろうか。

 

時は進んで現代。映画は音声や音楽にとどまらず効果音がサラウンドシステムにより全方位から飛んでくる時代になった。映画館のスクリーンもよりよい音のために改良された。映写機(デジタルプロジェクター)からの光は反射するが、音は通すことができるサウンドスクリーンにより、メインスピーカーはスクリーンの裏側に配置されより自然な音の定位を実現した。音は映画を構成する上で重要なポジションを持ち、映画製作者たちはリアリティやもっともらしさを映画に与えるために多くを音に頼っている。

 

 

そういう時代に、あえて百年近く前に作られたサイレント映画にこだわり、現代においても活動弁士として活動する人たちがいる。私はそのうちの一人、縁寿さんと出会った。縁寿さんとは共通の友人を通して知り合うことができた。それまで活動弁士がなにものであるかも知らず、無声映画に音を付ける人と言われてもさっぱりピンとこなかった。それ故に勝手に講談師と混同し、ベベンベンベンベンとやるイメージをこれまた勝手に作り上げていた。

 

ところが活動弁士なるものがまったく想像とは違うものであったことは映像をご覧いただければ一目瞭然であろう。登場するキャラクターすべての声と、ナレーションをたった一人で表現するのが活動弁士の本当の姿である。したがって、サイレント映画における活動弁士の役割りは極めて大きい。活動弁士が変われば映画が変わると言っても過言ではないと思う。それは声色や演技力だけでなく、内容そのものも違うものになってしまうためである。さて内容が変わるとは一体どういうことか。

 

 

多くの無声映画には劇中の役者が何を言っているのかがわかる台本が存在しない。もちろん映画制作時には当然台本があって、それに準じて役者たちが演技をしていたが、その台本は今はもう残っていない。つまり、劇中の登場人物に与えるセリフは活動弁士が創作しなければならないのである。よって完成した台本はその活動弁士オリジナルのものとなる。内容が変わるといったのはそういうことである。もちろん話の筋が変わるわけではない。しかし言葉の選び方によってニュアンスが変わる。結果としてその映画から受ける印象は違うものになるだろう。

 

活弁の魅力はもちろん活動弁士にあるが、同時に映画そのものもたいへん魅力的である。映画産業の黎明期に制作者たちがないものだらけの中で様々な創意工夫を凝らし、物語を練り上げて作り出した映画はエネルギーに溢れ、映画を面白くみせるために全身全霊をかけている様を感じるのだ。今回映っている映画は、阪東妻三郎主演の雄呂血という作品である。主人公だけ白塗りの隈取りというメイクなのに違和感がない。いや、実際違和感だらけなのであるが、白黒で階調性の乏しいフィルムの映像の中ではそのくらい濃いメイクでちょうどいいくらいだ。それに物語や演出力によってぐいぐい引き込まれてしまうから、私くらいの世代だとドリフの加藤茶だアハハなんて思うのは一瞬でありいつの間にか映画に没頭してしまう。

 

私は同じ映像制作者として無駄のないカメラワークに感動したが、ある人は途中途中に挿入される手書きの文字の形に感動したという。まったく凄い映画だからどんな人でも何かしらに感動するだろう。あなたが経済の専門家なら経済的視点で、教育者なら教育的視点で感動するに違いない。温故知新とはまさにここにあったという映画であった。私がたまたま観た映画が特別によかったのか。そうではないと縁寿さんは言う。その後数多くのリメイクを重ねた映画でさえ、オリジナルが一番よいと言った。テクノロジーの進歩によって映画は多くの面で向上したが、作り手の気持ちも合わせて向上したわけではない。現代の映画はむしろ技術に寄りかかって気持ちのほうが置き去りになってしまったような作品が多い気がする。ほぼなんでも表現できる技術を持つ現代と違って、昔の人たちは様々な限界を打破するために気概と知恵を目一杯使って映画を作っていたのだと思う。

 

最新のハリウッド映画もいいが、なにも新しいだけが映画ではない。映画の良し悪しと映画の新旧は関係がない。百年ちかく前に作られた映画が今でも残っているということはそれだけその映画に価値があるということである。それは古典の小説が現代でも版を重ねて読みつがれているように映画もまた受け継がれて行かなければならない。それならサイレント映画に音をつけて保存すればいいのかというとそれは違うのである。

 

 

無声映画の時代は、映画はライブであった。映像に生の演奏がつき、活動弁士が生でしゃべる。だから当時の映画館はスクリーンの前にステージが必ずついていたという。観客は映画を楽しむと同時にライブステージを楽しみに映画館に足を運んだのである。だから、百年前の映画を残すのならば、活動弁士も残さなければ意味がないのだ。そして現在十五名前後の活動弁士が各地で活躍しているという。今残すか、いずれ消えてなくなるか。残された時間は少ない。残したいと思ったあなたはまず会場に足を運ぼう。そうして一人でも多くのひとが活弁を観に行くことで一つの文化として定着してほしいと願っている。文化として根付けば活動弁士になりたいという後継者も生まれよう。

 

縁寿さんは劇団ひまわりで青春時代を過ごし、退団後水芸のアシスタントやったり色々なことを経験してこられた結果活動弁士という職業に出会う。そして活弁を知った時「これだ!」と思ったそうである。活動弁士という仕事は、役者的能力を求められることはもちろんだが、同時に演出家の能力も必要であると考える。それは前述した台本を作らなければならないことだけでなく、映画での魅せ方も自力でやるしかないからである。縁寿さんのお話を伺っていると、縁寿さんは単に役者であることだけでは満足できず、演出も自身で考えたいタイプであるように思う。そしてそれを両方同時に実現できるのが活動弁士だった。ようやく巡り会えた天職だった。

 

縁寿さんはご自身で語るように山あり谷あり谷ありの人生を送ってきた。自分はこうしたい、こうあるべきと強く考えるのはものづくりをするひとたち共通の感覚であり私も共感できる。十五で始めた演劇の世界に二十二で絶望し、そこから長く立ち直れなかったのも彼女のものづくりにかける一途な姿勢をあらわしている。自身を単なる肉の塊になったと表現したうつ病になる。傍から見れば頑固ものに映ったその姿の本心は純粋さだった。その証拠に、彼女の純粋さを見抜き闇の時代にも離れずにいてくれた友人がいた。その友人が半ば強制的にこれを観ろとすすめてくれたのが映画サウンド・オブ・ミュージックだった。ジュリー・アンドリュース主演の不朽の名作は暗闇に閉ざされた縁寿さんの心に一条の光をもたらした。くしくも映画が公開された年は縁寿さんの誕生年と同じ1965年だった。

 

 

水芸のアシスタントも活動弁士も自ら進んで見つけたわけではないと縁寿さんは言う。どちらも気の赴くまま風の吹くのに任せて辿りついた仕事だった。しかし、それは縁寿さんが心の奥底で強く望んでいたその力が風を起こし縁寿さんを導いたのだと思う。活動弁士という天職に辿りついた縁寿さんにとって、そこは人生のゴールではなくスタートである。これまでも、そしてこれから先も待ち受ける数々の苦難を乗り越えて縁寿さんは活動弁士を続けていく。やりきったと思える日が来るまでずっと。

 

錦糸町 シルクロードカフェでは食事をしながら活弁が楽しめる稀有な存在

活動弁士というのは、私が知らなかったことを棚に上げるまでもなくマイナーな存在である。しかし一度でも活弁をライブで体験したならば、あなたにも活弁の魅力がわかっていただけると確信している。活弁は、映像とパフォーマンスが融合した、まったくもって古いのに新感覚のライブイベントである。一人で行くのもいいが、彼氏彼女とデートで行ったら盛り上がること間違いなしだ。私は子どもがもう少し大きくなったら家族で観に行きたいと考えている。もちろん縁寿さんの公演だ。

 

映像中の上演作品について

 

会場:錦糸町シルクロードカフェ

 

「雄呂血」1924年 大正14年作品 

 

監督 二川文太郎  脚本 寿々喜多呂九平  主演 阪東妻三郎

 

活動弁士 縁寿 

 

楽士(ギター&三味線) 湯浅ジョウイチ

 

映像協力 マツダ映画社

201996日(金)