2023年6月20日
朝起きて計算を始めて、家にいるときは一日ずっと計算をしている。娘の美和子さんは父の印象を振り返る。ひとつのことに没頭する。深く深く掘り下げていかないと気がすまない性格。二十四歳で生涯研究者宣言をするが、その礎は少年期に醸成されていた。
戦争経験者はどうしてこんなに強いのだろうと思うことが多いが、小林駿介さんもご多分に漏れずその強さをひしひしと感じさせるひとだ。なぜ強いのかと言えば、そのひとつは戦争で一回死んでいるからだろう。中学生のとき、米兵が九十九里浜に上陸してくるのでキミたちはそこへ並んで盾となれと言われた。そんな馬鹿なと今なら言うだろうし、昔も陰では言ったが逆らえるものではなかった。今日か明日か、いよいよか。そうこうしているうちに戦争が終わった。日本は負けたが命は助かった。もうこれは一遍死んだも同然だった。運良く手に入れた人生だ。精一杯生きよう。悔いのないように生きよう。ありがたく生きよう。
小林少年が最初に傾倒したのは天文学だった。手に入る本は片っ端から読んだ。一度知りたいと思ったらとことん追求する。小林さんの研究者としての資質はすでにこの頃から開花していた。子どもだから子どもの本を読むのではない。そもそも子ども向けの本など現代のようにそう多くあるものではなかった。小林さんは東大の天文教室の本まで全部読んだ。そのまま天文学者にならなかったのが不思議なほど天文学に没頭した。
星には生き物と同じく寿命があり、当然太陽にも寿命がある。いつの日か死にゆく太陽は膨張を始めやがて地球を飲み込むだろう。太陽が死ぬことは、地球が死ぬことである。そう考えると身の回りのことが些末なことのように見えてきた。鉄よりも重い元素は宇宙からやってきたものである。すると自分の体を構成する要素に宇宙オリジンのものが含まれているからなるほど自分は宇宙人に相違ない。小林さんは明るく輝く夜空を眺めていた。
埼玉県入間のお茶屋さんに生まれた小林さんは当然お茶屋を継ぐことを期待されていた。このあたりは茶の栽培が盛んで、狭山茶のブランドで有名な茶処だった。昭和初期の日本茶の需要は現代とは比較にならないほどあって、小林さんの父親は狭山茶の商売で成功を収めていた。父親は仙台か札幌に狭山茶専門店を出して、小林さんをそこへ充てがうつもりでいたらしいが、本人はいたってその気がなく自分は将来研究者になるのだと譲らなかった。
研究者とはなにか。両親は最後までわかってもらえずに小林さんの進退は占いに任されることになる。その結果運良く神主が理解を示してくれたことで晴れて小林さんは研究者としての第一歩を踏み出した。1950年当時授業料が安かった東京理科大学物理学科へと進学した。
卒業研究では真空管陰極材料に関する研究に取り組んだ。その論文を担当教授と共著でアメリカのフィジカルレビュー誌に送ったところ掲載された。フィジカルレビューといえば、世界最高の論文誌の一つである。学部生の論文がフィジカルレビュー誌に載ったということで、それを聞きつけた朝日新聞は取材にくるし、共著した坂元先生は理科大の博士第一号にしてやるから残れと言われるしで小林さんの研究者人生はまさに順調そのものに見えた。本人もおそらくそんなふうに感じていたのだろう。ところが小林さんは一度だけ研究者を諦めようとしたことがある。
結晶成長の基盤酸化マグネシウム(MgO)結晶を酸で洗うとDislocation etch pitが現れる。そのEtch pitの間隔から結晶粒界の角度が計算できることがわかった。小林さんはさらに実験を重ねて検証したかったが輸入品のMgOは高価だった。そこでその代用品として塩化ナトリウム(NaCl)や塩化カリウム(KCl)を使ってみたがこれらは水に溶けるので酸でEtchしてもその酸を洗い流すのに水を使うことができない。これではだめだ。考えられることをすべて試してみたがどれも成功しない。もうだめだ。研究者など到底なれそうにない。かといって今更実家に戻って家業を継ぐなんてことはできない。なにしろ母親は自分が丁稚奉公に出たと理解しているからだ。当時丁稚にでるということはすなわち容易に実家の敷居をまたぐことは許されないことであった。そうだ、どこか地方へ行って小学校の先生にでもなろう。そんなことを小林さんは真剣に考えたりもした。
最後にもう一度だけ。もう一度だけ確認しよう。そして顕微鏡を覗いて結晶をみてみると、なんときれいにEtch pitが見えているではないか。水で洗わなくても下に敷いていた紙がEtchingで溶解した部分を吸収していたのであった。ああ、俺はやっぱり生涯研究者で行く。小林さんはそう宣言した。二十四歳だった。
東大大学院を経て理化学研究所の研究員になっていよいよ液晶ディスプレイが登場する。1972年に日本計算機の武内文雄氏と共同でラビングマシンを発明して、世界初無欠陥カラーTN-LCD(TN型液晶ディスプレイ)を実現した。ラビングマシンとはそのままではバラバラになってしまう液晶の方向を一方向に揃えるための機械である。ラビングとはこするという意味であり、文字通り基盤をザラザラした繊維で一方向にこすって筋をつけてやる。すると結晶がその筋に落ちて方向性が定まるのである。そんな乱暴なと思うところであるが、実際その通りでありこれが現在ごく当たり前に存在する液晶ディスプレイの夜明けだった。
小林さんは理化学研究所の研究員を思うところがあって辞めることにした。どう思うところがあったのかは御本人にお聞きください。さて、ちょうどその頃大学教員の公募が始まったところで、小林さんは東京農工大学に応募する。採用倍率四十倍の中、助教授として採用され後に教授なった。東京農工大学では液晶ディスプレイの研究をさらに推し進め、日産化学の袋裕善氏とともに大面積無欠陥STN-LCD(スーパーTN型液晶ディスプレイ)を世界で初めて実現させた。これが現代に続く液晶ディスプレイ発展の基礎となっている。
小林さんは液晶ディスプレイの父であると同時に教育についても強い想いを持っていた。まず試験になると小林さんの授業では問題と解答を両方渡してしまう。だから学生は解答をそっくりそのまま写せば満点なのであった。これはひとの能力を計る上でテストなど役に立たないという考えである。試験で点数のよい学生が必ずしもよい研究者になるわけではないと小林さんは言う。東大に合格することと、優れた研究者になることは同じではない。それは研究主義、実地主義で生きてきた小林さんの人生そのものが現れた考え方であろう。
学生を教育するということについて、小林さんは習うという漢字を例に説明する。習うとは白い雛が羽ばたくという字である。したがって大学は学生にきちんと飛び方を教えてやらなければいけない。独り立ちして飛べるようになるまでが教育であり、こちらの責任である。だから自分の学生には論文を書かせ、学会でどんどん発表させてきた。当時は学生にそんなこととんでもないと考える先生が多かった。しかし私に言わせれば、とんでもないと考えるほうがとんでもない。学生が自分の力を伸ばせるチャンスをどしどし提供するのが本当ではないか。そして私はそうしてきた。小林さんの言葉に熱がこもった。
2021年。液晶の世界的普及に導いたとして「液晶の物性解明と高性能液晶ディスプレイの研究」により第111回日本学士院賞を受賞。続いて2022年、小林さんは端宝中綬章を受賞した。これは日本の勲章のひとつで、液晶ディスプレイの研究と教育の成果が評価されたのだろうと思うと小林さんは言う。戦争で一度死んだ命だから怖いものなどなにもない。そういって研究者人生を送ってきた小林さんであるが、九十を過ぎてなお現役の研究者である。だれも教えてくれないからと新しい計算式の導出に数年をかけたり論文を書いている。最近ではPython(プログラミング言語のひとつ)を始めたといって入門書をみせてくれた。趣味は研究。二十四歳で生涯研究者をやると宣言して、それが本当になった。ただし、それは偶然そうなったのではなくて、小林さんの強い意志が実現した結果である。