2020年7月20日

戸辺米穀店 店主 戸辺政光さん

 

東京都江東区亀戸2-14-9

03-3681-9003

 

営業時間:9:00〜20:00(日・祝 定休)

 

オフィシャルサイト

https://tobekome.com/

   

米屋に歴史あり。米屋が現在の米屋と同様の姿を現すのは江戸時代後期である。以前は米を売るのは米問屋と札差(ふださし)とよばれる連中で、米問屋は各地の米を売買し、札差は徳川家臣が俸禄として受け取った米を市中に売っていた。その米問屋や札差で働く米搗屋(こめつきや)が杵をかつぎ臼を転がしながら米を精米して売っていた時代があった。当時は米を玄米で買って都度米搗屋に精米をしてもらっていたのである。精米と言っても臼に入れた米を杵でつくのだから、現在の摩擦で削り取る方式と違って相当米が割れただろうし、今ほど白くはならなかったのではないだろうか。

 

 

時が進むにつれて出張精米屋だった米搗屋は姿を消し、米問屋や札差自身が店舗を構えて精米するようになる。これを舂米屋(つきごめや)と呼び、現在の米屋の原型になる。精米のために移動する必要がなくなったことから杵と臼は据置式の唐臼(からうす)に取って代わった。これは中国由来のテコの原理を利用した臼で足を使って搗くことができるようになっていた。唐臼になっても人力で精米することは変わらなかったが、その後精米機の動力に水車が利用され、舂米屋の労力はだいぶ軽減されるようになる。水車は仕事を楽にするだけでなく、大量の米を安定した品質で精米することを可能にした。そして大正時代になると精米機はついに電動化され現在に至る。

 

東京都江東区亀戸に戸辺米穀店という米屋がある。かつて亀戸だけで二十〜三十軒あったと言われる米屋も今(2020年)はたったの二軒しかない(組合所属の米屋として)。しかもそのうちの一軒は近いうちに店じまいをするかもしれないというから、そうなると戸辺米穀店は亀戸地区唯一の米屋になってしまう。個人経営の小売業には厳しい時代の中、戸辺米穀店店主 戸辺政光さんは米屋専門店だからできることを日々模索している。

 

 

戸辺さんは戸辺米穀店三代目を継ぐ。祖父が始めた米屋を父親が継いだが、戸辺さん本人は当初継ぐ気はなかったという。それよりもエンジニアになることを夢見ていた。実際高専に進みその道を目指していたのだから本気だった。日進月歩の勢いで日々新しいものが生まれていくエンジニアリングの世界に比べて家業の米屋は代わり映えのしないあまり魅力的な職業には見えなかった。実際、当時の米屋は数ある小売店の中でも極めて自由度の少ない業種だった。米の売買は政府によって統制されていたからである。

 

明治から大正にかけて、米の売買は自由だった。また米の輸入も自由で、植民地から大量の輸入米が国内に流通していた。国内はまさに米で満たされていた時代があった。米の価格は需要と供給により市場で決定されていたが、それが原因で米騒動が起こる。資本主義経済の急速な発展、日本人の米食の増加、農業離れによる生産量の低下、それらが合わさって米の値段が跳ね上がった。そこへ追い打ちをかけるようにシベリア出兵による戦争特需を見込んだ売り惜しみが重なって、米の値段はさらに急騰した。それまで溢れていた米が手に入らないものになる。米を出せ!米の価格を下げろ!そうした声は全国に響き、ついに各地で暴動が発生する事態となった。政府は軍隊を出動させて鎮圧にあたり、時の内閣は総辞職するに至ったのである。この騒動を機に米を自由競争させてはならない、米は政府が管理するべき対象として見られるようになっていく。

 

 

米は農作物である。豊作の年もあれば不作の年もある。そして1939年に発生した天候不順による凶作が、米を政府の支配下に置く決定打となった。この年日本国内だけでなく朝鮮半島でも凶作となり、各地で米の売り惜しみが発生する。そこで米の値段は政府が決めるものとし、1940年には米の個人売買を禁止した。そして1942年、食糧管理法が施行されすべての米は政府を仲介して売買することになったのである。

 

 

この食糧管理法(略して食管法)があると、米屋は米にこだわることができない。産地までは選べても農家を指定することはできなかった。戸辺さんは個人店として特色をだせないことに不満を持っていた。これでは数ある米屋の中の一軒でしかない。事実、米の販売だけでは収入が十分ではなかったから、百貨店の配送業務を請け負っていた。配送物の中には米も含まれていた。どうして自分ちの米を売らずに他人の米を配っているのか。この配送時間を自分の店のために使えばもっといろいろできるのではないか。若き戸辺さんは店を手伝いながら疑問に疑問を重ねていった。自分ならこうする。自分ならもっと上手くやれる。そして気がつけば米屋を継ぐ気になっていた。

 

 

食糧管理法は戦後にあった昔話ではない。ヤミ米と聞けば戦中戦後の歴史の中で語られる言葉のように聞こえるが、実際はそうではない。この法律は1995年に廃止されるまで実に五十年以上も維持されていたから、その間に流通した政府を通さない米はすべてヤミ米であった。もっとも近代になってからの食管法はほぼ形骸と化し大量のヤミ米が流通していたという。戸辺さんにとって食糧管理法は自由売買を許さない目の上のたんこぶであったが、手に入れた米が美味いとなんとかしてその生産者を突き止めようとした。法律上は決まった米しか購入できないことになっていたが、その米を作ったのは誰なのか問い合わせているうちにその農家を特定できるようになっていた。もちろん直接仕入れることはできないが、将来自由売買が可能になったときのために、戸辺さんは情報を収集し、農家とのパイプづくりに専念したのである。

 

 

1995年(平成七年)、戦後最大の(農政における)規制緩和と呼ばれた食糧管理法の撤廃により、米の売買は再び自由競争の時代に入っていく。政府が定めていた米の価格が市場で決定されるようになると、販売力の高い卸や小売業(スーパーなど)がその主導権を握るようになった。その結果、米の値段は下落し、米を作る農家の経営は厳しいものになっていく。戸辺さんはその事実に警鐘を鳴らす。米を買い叩けばやがて米をつくる農家がいなくなってしまう。或いは生産効率だけを追求した米しか残らなくなってしまう。安全で美味しいお米を持続的に生産するための適切な価格で提供したい。それは農家のためであるだけでなく、巡り巡って消費者にとってもメリットがあると戸辺さんは語気を強めた。実際、戸辺米穀店のお米はスーパーに比べると1.5倍ほど値段が高い。スーパーやディスカウントストアの米価が低すぎるのであるが、それに慣れた目からすれば高いと感じるだろう。しかし戸辺さんの扱う米は戸辺さんが信頼する農家が自ら食べるために育てた米であり、だれが作ったのか顔が見える米である。食品の安全性が叫ばれる昨今において、食事の中で一番食する量が多いお米を安心して食べられる価値は金額に代えがたい価値ではないか。

 

 

戸辺米穀店に入ると、左右に各産地の米が二キロや三キロの小分けにされて並んでいる。そして客が入れる店舗には持ち帰り用の米しか置いていない。多くの米屋が精米施設と小売スペースを共有しているのに対し、ここでは完全に区切られている。店をリフォームするときに、どういう店作りが相応しいのか吟味した結果一続きの空間だった店舗を壁で区切り、店舗と精米スペース及び倉庫を分けたのである。それもこれもお米にとってどういう状態が一番良いか、お客にとってどういう状態が一番買いやすいかを考えたすえに行き着いた答えが分けるということだった。傍からみればこだわりの店作りにみえるらしいが、お客さんと農家さん両方を考えたら自然とそうなったと戸辺さんは明かす。

 

 

戸辺さんの扱う米はすべて農家との直接取り引きによるものだ。食管法時代に夢見たことを実現したといっていい。だから戸辺さんは田んぼの視察にも行くし、農家とのコミュニケーションを欠かさない。それで地域が偏っているかといえば、むしろその反対に北は山形から南は宮崎まで幅広く取り揃えている。有機JAS認定の米もあれば、合鴨米もある。合鴨米とは水田の雑草除去に除草剤の代わりに合鴨の幼鳥を使う農法で育てられた米である。合鴨の幼鳥は除去したい草は食べても稲を食べることはないというからよく出来ている。しかし鳥の雛を使うことから常に野生動物の脅威にさらされており、そうした動物の餌食になってしまうことも少なくない。過去には襲撃を受けて個体数が減ってしまい合鴨米として出荷できなかった年があったが、農薬を極力使わない農法としてチャレンジし続けている農家がある。そうした農家が費用の負担が大きい合鴨米を作り続けられるのも戸辺さんのようにきちんとした値付けで売ってくれるお米屋さんがあるからである。合鴨米は戸辺さんの扱う米の中でもとくに高価であるが、安心安全を優先したいひとには欠かせない選択肢となろう。ちなみに成鳥した合鴨は鴨肉として出荷されるそうです。

 

戸辺米穀店を語る上で有機JAS認定を抜かすことはできない。なぜなら有機JAS認定を受けた米を有機米として売るには店側も有機JAS認定を受けなければいけないからだ。認定を受けない場合、その有機米は通常米として販売されることになる。それでは苦労して作った農家が報われない。ではなぜ店が認定を受ける必要があるのか。米屋の場合、自店舗内で精米という行程の存在がその理由となる。精米機はその構造上投入した米がすべて精米されて出てくるわけではない。少量ではあるが、機械内に米が残留するのが通常である。そこで残っていた米を押し出す必要がある。でないと、様々な品種の米を扱っているため有機米と通常米が混ざってしまうことになるからだ。そうした作業に始まり、店舗が有機JAS認定を受けるためには様々な要求をクリアしなければいけない。いまでこそ全ての米にトレーサビリティは必須になったが、以前は有機JAS認定を受けるための必要要件だった。おかげで普通のお米でトレーサビリティが始まった時は楽に移行できましたと戸辺さんは笑うが、有機米を扱うということで課せられる厳しい基準をクリアした経験は戸辺さんを支える大きな自信になっている。

 

 

様々な認定基準を越えなければいけないJAS有機米を扱うのもまた戸辺さんの強い信念の現れである。それは店に個性を与えるためだけではない。手間のかかる方法で米作りをしてくれる農家を応援する目的でもあるし、安心安全なお米を消費者に届けたいという想いもある。農家と消費者両方の気持ちを考えたとき、JAS有機米はなくてはならない選択肢となった。そしてさらに言えば、合鴨米と同様に米作りの多様性を維持したいという願いがあるのではないか。多様であることは強さの証である。この先長きに渡って日本の米作りが途絶えることなく連綿と続いていくために、様々な作り方を実践する様々な人たちが存在する。こうした多様性こそが米作りの明るい未来を約束するのかもしれない。信念を貫いて仕事をしてきた先に思い描いたのは孫たちの笑顔であった。

 

 

実はGRIT JAPANでは一度戸辺さんに肖像画制作の提案をしたことがある。そのときは動画はだめとけんもほろろにお断りされたのであるが、時を経て今度は息子さんから父親を撮って欲しいというご依頼を頂いた。撮影させて頂いて改めて戸辺さんは正直でまっすぐでやり抜くひとであるとわかった。あのとき声をかけたのは間違いではなかったのだ。

 

米屋、肉屋、魚屋、八百屋……食品に限らず個人商店の数は減る一方である。日本中の地域で商店街はシャッター通りになっていく。戸辺さんのように硬い信念を持ちながら店を閉めざるをえなかった人たちはきっと少なくない。戸辺さんのところのお米は美味しい、戸辺さんの選ぶお米なら間違いがない。そういうふうに信頼のおける商店をあなたは今いったいいくつ知っているか。スーパーは便利である。しかし便利さと引き換えに失うものの大きさを失ってから気がついたのでは、遅い。

 

 

「お米が結ぶ心のきずなを大切に」戸辺さんはこの言葉を抱き農家と消費者の間を取り持つ米屋として今日もまた米に向き合う。かつて米屋日本一になった矜持と責任を胸に。

 

 


参考文献

 

米屋 KOMEYA 小泉光久 大月書店 2018

 

最新版 図解 知識ゼロからのコメ入門 八木宏典監修 一般社団法人家の光協会 2019

 

ウィキペディア「米騒動」