2019年7月22日(月)

ベーカリーミウラ 飛田憲彦さん

 

東京都文京区千駄木2-2-15 1F

03-5834-8972

営業日 木・金・土・日 定休日 月・火・水

営業時間 9:30〜


人類史の中で、誰が一番最初にパンを焼いたのかはわかっていない。パンが最初に登場する人類の記録としては紀元前四千年ごろのティグリス川とユーフラテス川の間に栄えた人類最古の都市文明と言われている。古代オリエントの肥沃な三日月地帯と呼ばれるこの土地は、現在で言えばイラク、アフガニスタン、クェート、シリア、イスラエル、パレスチナを含む一帯であるが、今では想像もつかないほどに豊かだった。

 

記録としての最古は前述の文明に由来するが、人類はその前からパンを食べていたようである。石器時代と言えば毛皮をまとった原始人を想像しがちだが、パンの歴史を知るにあたってはそうした既成概念を取り払うことからはじめなければいけない。狩猟採集文化から農耕文化に移っていったころ、この土地に暮らす人々は野生に実る大麦や小麦を食べていた。通常麦類は生のままでは食することができない。では人々は野生の麦を刈り取って一体どうやって食べていたのか。パンを作っていたのである。実に25000年前のことである。

 

パンを作るためには、麦粉がいる。それにはまず麦の実を取り出さなくてはならない。現在私たちが口にするパンに使用する麦は易脱穀性といって簡単に殻が実から外れるタイプの麦である。それ以前は難脱穀性という殻が実に癒着した麦しかなかった。したがって、今のように機械のない時代に難脱穀性の麦を脱穀するのはたいへんな苦労があった。しかしそれでもなお人々は麦、そしてそれから生まれるパンを求めて野生麦の収穫から自らの手で育てる農耕へと移り変わっていく。それから数千年の時をかけて人類は易脱穀性の麦を作り出した。現在ではヒトツブ小麦のような難脱穀性の麦がほとんど生産されていないのも当然なのだ。

 

パンを膨らませて焼くには三つの方法がある。一つは薄い生地を直火にあてて内部に水蒸気を行き渡らせる方法。しかしこの方法では薄いパンしか作れず、厚みがあってふわふわのパンを作るのは不可能だ。次は乳酸菌で生地を自然発酵させる方法。こうしてできた生地をサワードウと呼び、酸味があるパンに仕上がる。サワードウを作るには生地を温かい場所に放置するだけでよい。気温によって半日から数日で自然発酵する。サワードウは最も原始的な発酵方法である。なにしろ放置しておくだけでよいのだから考え抜いて作ったというよりは自然にできていたのを発見したというほうが近いのかもしれない。それはちょうど大豆を藁の中に放っておいたら納豆ができたのに似ている。

 

最後は生地に人為的に酵母を投入する方法である。古代ではビール酵母が使用されていたという。麦があればビールができる。アルコールへの情熱は現代も古代も変わらない。とはいえ、当時のビールの発酵を促したのは酵母ではなく細菌だったのではないかという説がある。サワードウを作る乳酸菌と同じように、ビールもまた放っておいたら勝手にアルコールになった、のかもしれない。いずれにせよ、それが乳酸菌にしろ出芽酵母にしろ、古代のパン職人たちはビール醸造者から発酵の本種を入手していたのは間違いなく、それは19世紀後半まで続くことになる。

 

 

白いパンが食べたい。それは古代から続く人類の夢だった。小麦の精製技術が飛躍的に高まるのは産業革命を待たなくてはならない。したがって白いパンが食べられるのは権力者に限られていた。特権階級の人々は白いパンを食べ、貧しい人々は全粒粉かライ麦パンを食べるしかなかったのである。今でこそ全粒粉やライ麦パンのほうが栄養価が高いとか、風味があってよいといった理由で好んで選ぶ向きもあるがそういうことではない。当時の白いパンを現代のパン職人が手作りするパン、全粒粉やライ麦パンを工場生産のコンビニパンに置き換えれば、実はそれほど状況が変わっていないことに気がつくだろう。つまりかつては色が豊かさのわかりやすい象徴だっただけのことである。小麦の精製技術に加えて、漂白技術が高まって白いということに価値がなくなっただけのことなのだ。

 

日本にパンが伝えられたのは十六世紀半ばと言われている。ポルトガルからやってきたキリスト教の宣教師たちがもたらしたパンは日本人にとってまったく未知のものだった。パンの語源はポルトガル語に由来し、パオンをパンと聞いたのが始まりと言われている。パンの音としてはフランス語に近い感じがするが、もし宣教師がフランス人だったとしたら定冠詞がついてLe painすなわちルパンになっていたかもしれない。或はポルトガル語を聞いた人がパンではなくパオと捉えていたら、現代のパン屋さんはみなパオ屋さんになっていた。歴史のタラレバ炒めに意味はないが、最初の聞き間違え一つで名前が変わっていたらと思うと面白い。

 

 

しかし実際は江戸幕府の鎖国政策によってポルトガル人を締め出し、西洋人としてはオランダ人だけが残ったあとでさえも、パンを表すオランダ語のBrood(ブロード)はまったく浸透せずにパンという呼び名が生き残ったところを見ると日本人にとってパンは言いやすく覚えやすい言葉だったのだろう。

 

東京メトロ千代田線の根津駅を降りて、根津神社へと向かう。正門へとつながる参道を通り越して、裏門にあたる北口のある通りに入ると神社の斜向いにベーカリーミウラがある。店主は三浦さんではなく飛田憲彦さんという。ベーカリーミウラはもともと神奈川県の逗子で開業した店だ。逗子での店舗のほか都内にも出張販売をしていた。店こそ逗子で始めたが、東京出身の飛田さんはいずれ東京に戻りたいという思いを胸にしていた。しかし都内ならどこでもいいというわけではない。変わらないこと、普遍性を重視する飛田さんにとって、東京の東側というのは譲れない条件だった。東京は皇居を挟んで西と東では文化が違えば人も違う。新しさやおしゃれさなら西側、下町、人情、昔から、といえば東側というのは概ね的を射ている。飛田さんにとって、トレンドに敏感な西側ではなく、昔から変わらない風情を残す東側に店を構えるということは自身のパンづくりを体現するうえにも必要不可欠なことだった。パンに新規性はいらない。昔っからあるパンづくりがしたいんです。流行とかそういうの興味ないんです。飛田さんはそう語った。

 

ベーカリーミウラでは製粉を自前で行う。つまり殻付きの麦を購入し、精米ならぬ精麦して、それを粉に挽く。多くのパン屋が小麦粉を購入するのに対し、自分で製粉するのは大変な手間であるが、「粉の鮮度が違うとパンの味も変わる」という。以前勤めていた店でも自家製粉していた経験から自分の店を持った現在においても自家製粉すること自体は自然なことだった。昔からの変わらぬパン作りを標榜する飛田さんにとって、パンの歴史の中でかつて自分で粉を挽いてパンを焼いていた時代のように今も自分で製粉するのは飛田さんの口からなんども繰り返される普遍性に通じている。

 

精麦(せいばく)を行って出た外皮のかすのことを糠(ぬか)という。日本では単に糠と言えば米糠をさすが、大麦の場合も糠(麦糠)と呼ぶ。違うのは小麦の場合で、糠ではなく麬(ふすま)と言う。呼び名が違うだけでどちらも指しているものは変わらない。ではなぜ小麦だけふすまと呼ばれるようになったのか、大変興味深いことだが今のところ不明である。のちに判明したら追記したい。ふすまについては不明だがぬかの語源は辞典に出ていた。語源由来辞典によれば、「ヌケカハ(脱皮)」の意味だろうとある。精米により脱がされた皮というわけだ。「ヌケカハ」の「ヌ」と「カ」でぬかとなったとすればわかりやすい。ぬかの語源がここまでストレートなものだとするとふすまは増々謎に満ちてくる。ちなみに英語ではぬかもふすまもブラン(Bran)である。最近はコンビニでもブラン入りのパンが売られているが、あれはつまりぬかが配合されているということだ。

 

米にしても麦にしても糠には単に食物繊維にとどまらない栄養がたくさん含まれている。実際ぬかにはビタミンB群が多く含まれるため脚気(ビタミン欠乏症)に効果があると明治後期に農学者の鈴木梅太郎によって提唱された。鈴木はぬかの有効成分を濃縮し「オリザニン」として販売したが、医学者でなかったためなかなか受け入れられなかった。当時はビタミンそのものがまだ発見されておらず、鈴木の発見が世界で認められていればビタミンではなくオリザニンと呼ばれるようになったのかもしれない。ビタミンという名前は1912年ポーランドの生化学者カシミール・フンクの命名による。鈴木梅太郎はフンクの発表するその二年前、1910年にオリザニンを発表した。

 

飛田さんは精麦して出たふすまも無駄にしない。パンのアクセントに取り入れて使用している。「捨てるとこないので、うちは創業以来ゴミゼロなんです」まるめたパン生地の頭をふすまの入ったボールにちょんちょんとつけながらそう言った。自分で精麦し、そこから出たふすまの利用まで考えてパン作りを行う。まるごと使う。無駄なものはなにもない。

 

 

 

飛田さんのパン作りの姿勢は一貫している。奇をてらわない。新しさを求めない。昔からの教えを守る。変わらない味を作り続ける。実際に飛田さんの作ったパンを食べてみればその素朴さに納得するだろう。はっとするようなパンチはない。その変わりあとからしんみりと感じる地味に美味しいパンである。挽きたての新鮮な小麦粉、新鮮なバター、新鮮な牛乳。素材の新鮮さを天然酵母で膨らませて焼く。飛田さんのパン作りは新鮮さを活かすパン作りだ。

 

 

ベーカリーミウラではライ麦以外は国産を使う。国産にこだわって使う。ひとつは生産者を守るため。海外品に頼れば酪農や農業を継ぐひとが日本からいなくなってしまう。飛田さんはヨーロッパを旅したときに食料自給率の高さに驚いたという。そして日本の食料自給率の低さに愕然とした。日本人が日本のものをつかわなくなったら日本の一次産業は滅んでしまう。そしてそれは決して起こってはならないことだ。だから飛田さんは国産にこだわる。杞憂するだけでなくまず自分が率先して使うこと。その一歩の積み重ねが大事。

 

次に、バターや牛乳に関してだが、国産品はくせがないからいいと言う。フランスのバターはそのまま食べるととても美味しいが、パンにするとくせが強すぎると感じている。牛乳もまたしかり。日本人だから国産のが合っているんですかねえと飛田さんは言ったが、それは飛田さんの考えるパン作りと通じている。主張しすぎないパン。日々食べ飽きないパン。飛田さんの作りたいパンに国産のバターと牛乳が応えてくれる。守りたいもとと使いたいものが幸せに一致した。

 

国産にこだわる理由の最後はなるべく負担をかけないため。生産地の近いものを使う。それはなるべくひとだけでなく地球に負担をかけないためである。移動距離が短いことで使われる燃料が減る。ゴミが減る。しいては地球環境への負荷が減る。自分にできることから粛々と実行していく。全ては継続していくため。継続するために今できることをやっているだけ。GRIT JAPANにふさわしい言葉をもって飛田さんはそう締めくくった。

 

参考文献

「食」の図書館 パンの歴史 ウィリアム・ルーベル著 堤 理華訳 原書房 2013年

パンの文化史 船田詠子著 講談社学術文庫 2013年

パンの歴史 世界最高のフランスパンを求めて スティーブン・L・カプラン著 吉田春美訳 河出書房新社 2004年

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