チョコレートドーナツ

 

 

ゲイのカップルが育児放棄されたダウン症の子どもを育てようとするが、差別と偏見の壁にその行く手を遮られて無情な現実を突きつけられる。1979年のカリフォルニアが舞台である。現代ならもう少し違った解釈と結末になるのだろうが、40年前ではゲイカップルが養子をとるなど世間一般的にはまったく受け入れられないものだった。

 

 

 

原題を”ANY DAY NOW”という。翻訳しにくいタイトルだが、邦題のチョコレートドーナツではいささか軽すぎたかもしれない。男の子の好物がチョコレートドーナツだったことに由来しているが、たぶん他に思いつかなかったのだろう。

 

 

 

ヤク中で、ボーイフレンドにうつつを抜かし、親としての責任遂行能力がまったくない母親にさえ裁判で勝つことができない。ゲイということがわかれば、会社をクビになる。だれかに迷惑をかけたわけでもないのに、ゲイというだけで社会は彼らをゼロ以下に置く。社会は彼らに対して同情心など一粒の砂ほども感じることもなく、トイレの水を流すように、一秒でもはやく目の前からその存在を消し去りたいと思っている。主人公の二人であるドナテロとボールは、ただただ男の子の幸せを願ってそのための最善を尽くそうとしただけなのに、たまたま彼らがゲイだったという事実ひとつで社会は本題をすり替えて、ヤク中の母親を引きずり出してまでゲイの排除に力を注ぐ。

 

 

 

その結果、一番被害を被ったのは、行くあてを失ったダウン症の男の子だった。社会の差別と偏見が、ひとりの子どもを殺したのである。ポールは裁判に関わった人たちに少年の死を手紙で告げる。同封されていた小さな新聞の切り抜きを手にして、それぞれが意味深な表情を浮かべて映画は幕を閉じるが、アメリカで同性婚が法的に認められるようになるまでそれから24年の歳月を待たなければならない(2003年にマサチューセッツ州でアメリカ初の同性婚が認められる)。

 

 

 

ひと度差別感情が社会に生まれると、マイノリティは為す術がなくなる。社会は耳を塞いで両目を覆い、ひたすら排除だけに無心で力を注ぐことに労力を惜しまない。だから大切なことは、社会をそういうモードに入れないということである。そのためには、社会を構成する一人ひとりが、考え、気付き、声を上げることが大事であろう。走り出したら簡単には止まれないから、走り出す前に動かさない努力をマジョリティは意識しなければいけないのだ。「ちょっと待って、それっていいんだっけ?」で救われるひとが何千といる。