バードマン 或いは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

こんなひとにオススメ

  ★生きる意味

  ★元気になる

  ★人生について考えたい

 

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を観た。

 

 

ずいぶん長いタイトルだが、原題もBirdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)となっている。

Virtueを奇跡と意訳したのはなかなかだなと思う。

 

 

 

アカデミー賞を4部門受賞し、世界中の映画祭で絶賛された作品だから今更ぼくが言うまでもなく素晴らしい作品であるが、

なぜか観る機会を逃していて先日ついに観たのである。

 

 

 

編集の切れ目をわかりにくくさせてまるで長回ししているかのように作っていることに称賛が集まっているようだが、

はっきり言ってそんな技術的なことはどうでもいい。

いや、その方面に興味のあるひとにとっては最高の研究材料になるだろうが、本当はディレクターが本当に長回しがしたかったのだけど、

映画会社の上層部に反対されての苦肉の策とどこかに書いてあって興味が失せた。

長回しは監督や俳優にとってひとつの夢であるが、制作予算規模が大きくなればなるほどその実現から遠ざかってしまうものである。

 

 

 

最近の映画では1917が長回し風撮影で話題を作っていたが、結局それ以外に見どころがなく退屈な部類になっていた。

長回しというのは撮影技術の話で、映画の根幹ではない。技術は必要に応じて使われるべきであり、技術ありきで制作してはいけないのである。映画はやはり物語が第一でなければならない。

 

その点バードマンは物語が秀逸であった。

バードマンの撮影技術が評価されたのも物語をより盛り上げる要素として機能していたからである。

 

 

 

かつて人気を誇ったハリウッドスターが落ちぶれてブロードウェイに再起をかける。

そこに個性あふれるキャラクターがマイケル・キートン扮する主人公リーガンを取り囲んで好き勝手をしたり、自分の人生にもがいていたりする。もっとも一番もがいているのはリーガンである。失敗したら後がない。まさに人生をかけた一大イベントである。ところが思い通りにいかないのもまた人生である。だがリーガンに落胆はない。怒りと情熱が彼を突き動かしていく。バードマンはリーガンに名誉と財産を与えたが、同時にリーガン自身と区別がつかなくなっていた。バードマンの栄光を失うということは、自分自身を失うことを意味するのだ。

 

 

 

しかしすでに落ち目のバードマンを捨て去ることができなければ新境地に達することなど不可能だ。

その自らのアイデンティティを剥ぎ取る葛藤こそこの映画の見どころである。そしてそれが重苦しいどころか軽快ですらあるのが爽快だ。それはこの映画が音楽だからである。その音楽のリズムがあまりにも心地良いので、鑑賞者は映画から目を離すことができない。最後まで釘付けだ。久しぶりにいい映画を観た。