GRIT JAPANで肖像画を作らせて頂いた舞台俳優の蒼井染さんが出演される演劇を観た。本来なら今春に公演するはずがコロナ禍で中止となり、秋も深まる現在になってようやく開催となった舞台である。そして本来ならその練習風景をGRIT JAPAN用に撮影させてもらうはずだった芝居をこうして観客席から眺めていると未来の不透明さとちょっぴりの寂しさを感じた。
日暮里は常磐線が最初に山の手線内にアクセスする駅であり、日暮里駅に近づくと途端に線路の数が増えて急に都会感が増す。子供の頃日暮里駅までくると黄緑色の山手線や水色に塗った京浜東北線、濃緑地に冴えない発色のオレンジ帯がついた東海道線が目に飛び込んできて東京に出てきた実感を味わったものである。ただ日暮里駅そのものに用があるわけではなくて、そこから池袋や新宿、或いは東京へと路線を乗り継いでいく。乗り換え駅としての乗降回数としては終点の上野よりもずっと多かったのではないだろうか。
日暮里という土地に目を向けると繊維の問屋街であり、駅周辺は布地屋だの生地屋だの皮革屋が軒を連ねているからそうした用途を必要とされる職業の方には有名な土地であるだろう。その日暮里の中央通りから一本入ったところに日暮里d-倉庫という名の劇場がある。なぜこんなところにという疑問は置いておいて、おそらくもともとは倉庫だったろう建物を改築した小劇場があるのである。外観は倉庫然としているから地域で目立つこともなく、知らない人は通り過ぎてもそこに劇場があるなどとはまったく気が付かないだろう。
昼間の回だったからひとは少なめだろうと思ったがほぼ満席だった。観客席は半分に間引きされていたから座る側からするとスペイシャスで心地いいが、主催者からすると売上は半分だからいくらコロナ対策とはいえ心中穏やかではいられない。もっとも無事に開催にこぎつけた安堵感のほうが強いのかもしれないが。運営をそのチケットの売上に頼っているこうした演劇にとって人数制限というのは死活問題になりかねない。だったら回数を増やせばいいだろうと思うかもしれないが、すでに出来上がった映画を繰り返し上映するのとはわけが違う。こちとら生身の人間が演じとるんじゃ回数を増やすったって限界があるってもんじゃ、である。では公演期間を伸ばせばいいかというと借りている箱代問題があるから一概に日数を増せばいいってもんでもない。だから、一回の公演にたくさんひとを入れるのが一番であって、それができない現状はたいへん厳しいと推察する。
でも、演劇をされている方って純粋に人前で芝居をすることに生きがいを感じていらっしゃる方が多いだろう。もちろん収入は多いに越したことはないが、コロナ禍において芝居ができる喜びを噛み締めているとかいないとか。今度機会があったら聞いてみます。
物語はある種のタイムトラベルを題材にしたもので、SF好きなら馴染み深い設定である。見どころはほとんどなんでもない会話を役者の力量によって演劇に昇華し、観客をどれだけ引き込めるかにある。優れた画家は身の回りのありふれた風景を描くことで、日常が美に溢れていることを我々凡人に教えてくれるが、優れた演劇者もまた同様に、ごくありふれた会話に感動を呼び起こす。パフォーミングアーツにも色々あるが、身体的能力をみせつけるパフォーマンスに対して、会話を劇とするパフォーマンスは簡単に観客が自分自身と結びつけることができるだけに難しい。つまり会話なんて誰でもできるからただしゃべっているだけではひとを感動させることなどできないのである。物語そのものが感動的ならともかく、時折笑いと取り入れながらおしゃべりだけで見る人を引き込むには相応のトレーニングと経験が必要だろう。
「化けの皮隔てた向こう側の話」というタイトルのもとで繰り広げられるオムニバス形式のこの演劇において、十名の俳優たちは水を得た魚のようにいきいき演じ、それぞれの個性を存分に発揮し、観客を魅せてくれる。簡素な照明だが機能的で審美的だった。うっすらと焚いたスモークがソフトフィルターのような効果を演出して演劇世界を現実離れしたふわふわと浮いた夢心地。二時間はあっという間に過ぎて終劇。夕闇は地面の底から湧き上がってやがて地上を支配した雀色時。ぼくは自転車にまたがって、夕飯作りのために家路を急いだ。