2024年6月18日
華道、或いはいけばなについてどれくらい知っているか。
始まりは室町時代の僧池坊専慶とされ、よっていけばなイコール池坊という時代が続く。その後にオリジナルの解釈を発展させた草月流や小原流が登場し、池坊と合わせて三大流派と呼ぶようだ。そこへ龍生派、嵯峨御流、未生流、古流が加わって七流派というようだが、実際には三百以上の流派が存在するという。
流派の増大は解釈の自由度の高さもあるが、それよりも結局のところ出来上がったものの説得力が大きいのではないかと思う。どんなに説が優れても出来上がったいけばながしょぼければ誰も見向きもしないだろうということだ。その点でいけばなは空手に似ている。空手もまた流派の多い武術である。新しい解釈をもって強ければ流派として世間に認められるのである。現実におけるプレゼンテーション次第という共通項をいけばなと空手に感じる。
大坪光泉さんは龍生派のひとである。
龍生派というのは池坊から分派して吉村華芸(かうん)というひとがはじめた流派である。明治時代のことだった。流派が生まれる背景には現状における不満や疑問がある。吉村華芸もまた当時のいけばなのあり方に疑問を感じ、草木ありのままの姿を重んじるスタイルを標榜し龍生派が誕生した。龍生派ではありのままの姿のことを貌(かお)と呼んでいる。貌を活かすいけばなでなければならない。草花の貌とよくよく対峙し、その貌を人間の手で表現することが大事であると龍生派は考える。
いけばなには古典華と現代華がある。古典の美しさは様式美である。型を重んじ、伝統に完成されたスタイルを踏襲する美しさを求めるものである。いけばなといって多くのひとが思い浮かべるのはこの形であろう。一方大坪光泉さんが作るのは現代的表現である。現代華は古典の反対を行く。いけばなの現代アートである。その良し悪しや意味がわかりにくいところも現代アート的である。意味がわかりにくいと書いたが、古典華をみていて意味を考えることはまずないと思う。眼の前の形の美しさがすべてであり、その佇まいが型に忠実かどうかという点がまずもって重要なのだ。古典華は出来上がった時点で完成している。観客は傍観者でしかない。
大坪光泉さんのつくるいけばなの現代アートは作り上げただけではまだ完成していない。観客がみて、その意味を模索して、解釈を得て初めて作品として成立するのだ。観客は作品を目の前にして戸惑う。圧倒される。なんだこれはと思って作品をしげしげと眺める。ここでいけばなに詳しいひとはこの作品がまったく型破りであることに気がつく。しかもそれは型を十分にわかった上での型破りである。ただめちゃくちゃなわけではない。いけばなを知らないひとはより一層わけがわからないものとして映る。様式美のようなわかりやすい美しさを全て脱ぎ捨てているから微に入り細を穿って理解に努めなければその作品がなにを表現しているかずっとわからないままである。そういう作品を大坪光泉さんは作っている。
つまり、観客はただの傍観者であることが許されず、主体的にならざるを得ないのである。とかく現代アートはわかりにくいものという認識をされがちであるが、古典と現代の違いは観客の態度にあるのだ。大坪光泉さんの作品も解説がなければ理解に苦しむものであるが、解説を得て改めて作品と対峙すると目の前が広々と開けてくる感覚がある。見えなかったものが見えてくるのだ。それは眼の前に以前からあったものであるが、固定観念とか既成概念とか凝り固まった考え方がいかに目を曇らせているか。新しい見え方を見つけたときはまるでトリックアートを見破ったような爽快感があるだろう。
大坪光泉さんはその前衛的なスタイルでいけばなを四十年以上作ってきた。龍生派の先生として古典技術を教える一方で自らは現代アートを邁進してきた。その華々しい経歴はオフィシャルサイトをご覧ください。大坪光泉さんの作品はどれも独創的で驚きに満ちている。野菜、石膏、セメント、鉄パイプ。さらにはゴミ袋を使って作品を作っている。ほかにもいろいろあるが書ききれない。一般的ないけばなのイメージからかけ離れているが、これこそが近代いけばなの姿なのだろう。
たまたま出会ったいけばなだったが、自分には向いていた。大坪光泉さんは言う。そして展覧会などで作品をつくれば誰よりも良いものができた。そういう大坪光泉さんは実に自然だった。本当にそうなのだろう。ただし前衛的ないけばな作りをしていると金にならないと言って笑った。そういうところもまた現代アートである。
大坪光泉さんにとって、怒りは作品作りの原動力である。
それはどんな怒りか。社会への怒り。世間への怒り。日常への怒り。不満や怒りを作品へぶつける。そうやってストレスを発散しているから身体にいいんだそうである。健康のためにはストレスを溜めないことであり、頭にきたことをみんな作品として吐き出してしまうからいたって元気なのだった。芸術家ではない一般人でもストレスのもとを紙に書いてビリビリに破いて捨てるというストレス発散法があると聞いたことがある。大坪光泉さんはその方法の上をゆくからそれはそれは爽快であろう。
無造作に葉を手で引きちぎる。ばりばりとむしる。素手ではどうしようもないところは道具を使うが、できるだけ手だけで作るのを信条としている。古典を極め、基本をものにしたものだけが許される境地に大坪光泉さんはいる。革新は基礎の上に成り立つのだ。手を使うということは、直接植物と向き合うということである。道具を仲介させないことでわかることがある。それは手触りだったり繊維の強さだったり枝葉に含まれる水分だったり匂いだったりする。或いは単純に道具を使うことへのアンチテーゼなのかもしれない。結局のところ、こうした解釈そのものが本人にとってはどうでもよいことなのだろう。そのような境地に達したものだけが許されることなのだから。