2021年5月27日
エングレーバー 金川 恵治さん
オフィシャルサイト
K CRAFTWORK JAPAN
〒110-0005 東京都台東区上野5-9 2k540 ARTISAN F-1
TEL 03-6803-2330 FAX 03-6803-2550
営業時間:11 時~19 時(「2k540 AKI-OKA ARTISAN」は水曜日休館。その他、同館の営業日に準じます)
山手線 秋葉原駅から徒歩6 分/御徒町駅から徒歩4 分
銀座線 末広町駅から徒歩3 分
例えばスポーツ選手でも、才能があるだけではだめ、努力するだけではだめ、ひとに恵まれていなければ一流の選手としてやっていくことができない、という話を聞いたことがあるとエングレーバーの金川恵治さんはいう。そして自分はいつのときもひとに恵まれてきた。現在もそうある。そう自分はひとに恵まれていると微笑んだ。
この言葉に異論はあるだろうか。私は自分ひとりの力で成功した、そう言い切れるひとはいるだろうか。なにをもって成功と考えるか。金を儲けることを成功と考えるならば株などを運用して大儲けすればそれは自分ひとりの力と感じるかもしれない。ところが本当は金儲けはプロセスであってゴールではない。その金を使ってなにをするかを考えだした途端、自分ひとりの力では立ち行かなくなって自分以外の誰かの手や知恵が必要になるはずだ。人間が社会というひとの集まりがなければ生きていくことができない生き物である以上、ひととの関わりは不可欠であるし、その関わりなくして成功などありえない。冒頭の言葉はそれを端的にあらわしている。
エングレービングとは日本語で言えば彫金にあたる。彫「金」と言っても彫る対象は金に限らず金属や骨や木材や石やガラスなど固くて彫れるものなら全て当てはまる。エングレービングの歴史は古く、およそ五十四万年前まで遡る。インドネシアのトリニールという土地から模様を施した貝殻が出土したのが人類最初のエングレービングと言われている。その他にも南アフリカではダチョウの卵の殻にエングレービングをしたものが見つかっており、後期旧石器時代になると動物の骨や象牙にエングレービングしたものが出てくる。貴金属にエングレービングを施すようになるのは紀元前千年を過ぎてからで、この流れが現在まで脈々と続いている。
エングレービングについては触れておかなければいけない重要な局面がある。それは1400年代に生まれた印刷技術への応用だった。それまで美術品や宝飾品としての技法だったエングレービングが実用的な価値を持った瞬間だった。金属板(主に銅製)の表面に彫り込んだ窪みにインクを流してその上に紙を乗せ、大きな圧力をかけて紙にインクを転写するものである。のちにエッチングという技術が発明されるまで、エングレービングは印刷における主要技術として使われたのであった。エッチングとは金属板にケガいた線に酸を染み込ませて腐食させ、結果その線が深くなりインクを保持できるようになるという仕組みであるがここでは深く立ち入らない。ちなみにエッチングという名称はオランダ語の「etsen」(食べる)から来ており、酸が腐食させることからこの名前がついた。
エングレービングするひとをエングレーバーと呼ぶ。日本語で言えば彫金師である。一口にエングレーバーと言っても彫り物の対象は様々であるが、金川さんは時計を専門に彫るエングレーバーだ。
JR御徒町駅と秋葉原駅の間の高架線下にJRが作った2K540という施設がある。そこにはものづくりの街と題して様々なショップが入り、その全てが某かのハンドクラフトに関わっている店である。その中の一軒がエングレーバー金川恵治さんの店Kクラフトワーク・ジャパンだ。店内は工房とショーケースの二つに分かれ、作業の一部は外からも見えるように配置されている。ショーケースには金川さんの作品のほかに協和精工の時計が並んでいる。協和精工とは聞き慣れない名前かもしれないが、時計のOEM生産の実績を経て自社ブランドMINASEを展開している秋田に拠点をおくメーカーだ。本業は業務用工具の製造であり、その製造技術を活かした特徴的な形状の時計を作っている。
もともとはもっと小さいスペースでお店をやろうと考えていたんです、と金川さんは言う。ところがそれならば一緒に店舗を構えましょうという協和精工の提案を受けて今の店舗兼工房を持つに至った。この店舗は単なる共同店舗ではなく、それ以上の価値が金川さんにとってあるものである。それは時計のエングレービングという特殊性に理由がある。市販の時計にエングレービングを施すと、そのメーカーの保証は消えてしまう。当たり前だと思うかもしれないが、客側にしてみれば、金川さんに装飾を入れてほしいがそうするとメーカーでの正規修理が受けられなくなるというジレンマが発生する。多くの顧客は正規保証を捨ててでも金川さんのエングレービングを選択、或いは金川さんオリジナル時計を購入することになる。共同店舗以上というのは、協和精工の時計に限っては、金川さんがエングレービングを施してもメーカー保証を継続すると請け負ったからである。本当に協和精工の社長にはよくしていただいている、と金川さんは感謝の言葉を惜しまない。このことは金川さんのひとに恵まれエピソードのほんの一部分である。
金川さんはもともとプロのイラストレーターだった。中でもとくに精密画を得意として自動車のエンジンやオフィスビルの内部イラストなどを多く手掛けている。もっともそうした機械のイラストに限らずスーパーリアルな動物なども描いていたというから何でも描けるのである。得意分野であり専門分野であるエンジンのイラストを見れば、それが迫真のリアリティをもっていることは素人だってわかる。それは金川さんの手によって描かれたものであり、手描きこそ金川さん最大のこだわりであった。
もしあなたがそのイラストをみて、手描きで描いたとは思えないという感想を抱いたならばそれはあなたが手描きがなんたるかを知らない証拠である。熟練の手描きにはコンピュータで描いたのでは到底表せないリアリティを作り出すことができるからである。コンピュータは多くの面で人間の能力を凌駕しているが、ただひとつ決して人間を超えられないものがある。それが芸術である。金川さんの生み出す手描きの芸術の前に、CGの出る幕はない。
ところが時代はCGへと傾いていった。だれもが簡単にそれらしい絵を描けるCGはコストの削減と利便性を武器に手描きを表舞台からはじき出したのである。手描きにこだわる金川さんは自分に問うた。手描きこそが自分の真骨頂であり、信念である。その手描きが求められないイラストの世界に信念を曲げてCGを使ってまで自分がいる意味はあるのか。ない。
時計制作は昔からの夢だった。しかしイラストで仕事が上手く行ったことでその夢から遠ざかっていた。手を動かしてものづくりがしたいという思いはイラストの世界を離れてもなおこころを離さなかった。時計制作のためにまずはその構造を知ろうと専門学校の門を叩くも入学を拒否された。専門学校にとって集客のための最大のウリ文句は「就職率」である。すでに年齢がいった金川さんが時計の修理技術者になってもその年齢故に就職先がないと判断されたのだった。このとき金川さんはまたひとに恵まれる。
とある時計修理師がプラベートで時計教室を開いていることを偶然知り、そこへ出入りができるようになったのである。そして金川さんは時計の構造を学び修理方法を習得したのである。普通だったら考えられないこと、と金川さんは回想した。修理道具や機材は自由に使えた。必要な知識は惜しみなく与えられた。そして新しい人脈もできた。その人づての先に、金川さんが時計修理の傍らに趣味で作っていたエングレービングに興味を持ったひとが現れた。金川さん、あなたは修理師としてではなく、エングレーバーとして我社に来ませんか。そう提案してきたのは日本でも有数の時計輸入代理店の社長だった。また恵まれた。
エングレーバーとして充実した会社生活を送っていたが、会社が代替わりするとその環境は一変した。トップが変われば全てが変わる。会社員を経験したことがあるひとなら誰でも知っていることだ。悶々とした日々を送っていた金川さんを動かしたのは妻の一言だった。辞めたいんなら辞めていいよ。その言葉で金川さんは安定を捨て、独立を決心した。さて、独立を宣言したものの実際にどうしたものだろうか。エングレービングには自信があるが営業のほうはからっきしである。そんな折前述の協和精工に引き合わせてくれたひとがいる。独立時計師の菊野昌宏さんだった。菊野さんの計らいによって協和精工とつながりを持ち、共同店舗を構えるようになったのはすでに述べた通りである。こうしてひとに恵まれ続けて金川さんは数々の難局をくぐり抜け現在に至る。金川さん自身が言う通り、誠にひとに恵まれたひとである。
美しいとは何か。こんな話がある。
例えばあるイラストにおいて、直線が直線に見えないということがある。ある形状で人間の目が錯覚してしまうことが原因で本来まっすぐに引いた線が曲がって見えるのである。手描きでは予めその線をまっすぐに引かないことでまっすぐに見えるように描くというテクニックが存在する。正確であることと、美しさはイコールではないのである。それをイラストの世界で体感した金川さんはエングレービングにその感覚を応用している。大切なのは見た目の美しさであって、数値的整然さは美しさとは無関係であるばかりでなく、不格好ですらある。もしそれを美しいと感じるならば、それは感覚ではなく論理で美しいと思い込んでいるにすぎない。数値的に正しいのだから美しいに決まっているという誤解である。美しさは歪みや揺らぎの中から生じるのである。美しさは全体性の中に宿るのである。細部の不自然が全体の自然を調和するのである。金川さんは手作り手作業にこだわり続けることで、美しさの境地を追求しているのだ。
参考資料
手仕事の道具百科 ダイアグラム・グループ編著 鈴木主税・吉岡晶子訳 草思社 1986年
ウィキペディア「彫金」「Engraving」「エングレービング」